時々いますね。日本は好きだけれど日本という国の「枠」には囚われたくないっていう人。

日本人が持つ文化だとか技術だとか風習だとか(国民性みたいなもの)、あるいは食べ物だとか音楽だとか、好きな日本というのは人によっていろいろだと思いますけど、それらと国の「枠」を分けられるのかというと、分けられないと思うんですね。

目には見えない魂ですが、大抵の人は魂があると思っているでしょ?
魂は魂だけでは存在できないんじゃないかと思うんですね。
魂を存在たらしめるのに肉体が必要になる。

科学が進歩して、DNAが解明されたりといろいろな事がわかってきましたが、依然として命とは何か、心とは何か、魂とは何かはわかっていません。
わかってはいないけれど、我々は命があって、心があって、魂があることを知っている。
我々は決して唯物論的に物事を把握しているわけではないということでしょう。

国の「枠」を文化や習慣などと分けて考えるのは、たぶん意味がないです。
国境や国籍は後付けの概念でしょう。
「枠」は「柵」のような考え方をすれば、他と自分を隔てるものになります。自然発生的な集団が他の集団との差異を見つけて設定した「柵」で、それを実用性を加味して国境や国籍という概念ができた。
「枠」は入れ物とも考えられます。魂を入れる肉体のような考え方です。
この「枠」は境界線があまりはっきり見えないんですけれど、文化や習慣、言葉や振る舞いなどを集めていくとだんだんと形が見えてくるものかもしれません。少なくとも生け垣のような造りものではないです。
国境や国籍は便宜のためにあるわけで、それは国の姿の本質ではなく、本質を見えるようにするために国という概念があるんだと思います。「好きな日本の〜〜」と「国(の枠)」は一体。
「日本は好きだけれど日本という国の「枠」には囚われたくない」ということは、一体であるものを否定し、好きな部分のみを肯定する。そういうことになるんでしょう。 一体という構造を否定するわけですから、もしかすると構造破壊かもしれません。

昨日は自作ギター3号機のボディー材の接着面を平面にする加工をしました。
大きめの板にサンドペーパーを貼って、平面や厚みを時々確認しながら、何度もサンドペーパーの板を行ったり来たりさせる作業。
板の厚みを落として平面を出す作業というのは結構時間がかかります。
こういうのは機械を使ってやれば短時間で正確にできるんだと思いますが、 機械を持っていない、騒音や作業時間帯などの問題で機械を使えない、なんていう状況の場合が多いので手作業です。

手作業だから丁寧にやる。
そんなに丁寧にやる必要はないと思うくらい丁寧にやる。

正確ではないけれど丁寧な仕事です。(笑)

2号機の方は塗装に入ってます。
昨日はボディーへの顔料による着色が終わったのでプライマーで下塗りをしました。

狭い部屋なので塗装中のギターを吊るす場所がほとんどありません。
なんとか釘が利く場所を探して、木ネジをねじ込んで吊るす場所を確保しましたが。この位置は寝起きする位置のすぐ近くです。
乾燥待ちの塗料にうっかり触れてしまう事態が容易に想像できます。
きっとやっちゃうな。