「自然」とは「自ら」「然らしめる」ということなんでしょうけれど、これがなかなか解らなくなってるような気がします。一昨年家庭菜園をやろうと思って、始めたのが去年の2月頃。段ボールでコンポストを作って、大豆や米を育て始めた。その時から化学肥料は使うのはやめよう、電気などの石油を使うエネルギーは使うのはやめよう、なんていうことを考えながらやっているんですが、それから、あるツイッターのアカウントから発せられるツイートがとても気になってます。

自然農bot (@shizen_no)というアカウントのツイートです。

こちらです。

http://twilog.org/shizen_no

いくつか取り上げて、思ったことを書いてみます。

土を裸にしないことが大事で、種を蒔かなくても草をかぶせておいたら、小動物の生活が始まって、土が再び甦ってくれますね。

これは試しにやってます。
家庭菜園の土を裸にしないで、籾殻を敷いたり、ギター制作で出たカンナ屑を撒いたり、収穫した野菜の食べずに捨ててしまうような葉っぱや茎を敷いたり。

ぼくは酸性・アルカリ性の別のないところで種を蒔いています。

家庭菜園の解説書なんかを読むと、石灰を撒いてアルカリ性にして・・・のような記述に出くわします。そういうもんだと思ってたんですが、そうでもないのかな。うちは井戸水や雨水を竹炭で濾したものを菜園で使ってます。竹炭で濾した水は少しアルカリ性になります。そんなこともしないわけなんでしょうね。

これも同じような内容です。

おおいなる自然界、生命界は対を絶し、別を絶したすべてが一体の存在にして、同時にすべては個々個々別々、相対する存在なんですね。このことは二つのことではなくてひとつのことなんです。

善悪、内外、男女、全体と部分。違うようで一体ということが多いんですよね。 分けると存在できない概念っていうのかな。そういうことを言ってるのかな。

自ずから次の生命が棲みやすいような環境にかえていくわけでしょう。かえるのじゃなくてかわっていくのですね。棲みにくいようにはかわっていきませんものね。棲みやすいようにかわっていくんですね。

「自ずから」「然らしめる」なんですね。

農薬の害が恐いから農薬を使ってはいけないという以前に、農薬を必要とするようなお米となりますのはお米の生命力が弱いということです。耕す、肥料を与えることによって弱くなったのです。

これっていろいろなことに当てはまるんじゃないかと思います。
現代の日本人ってこの「弱くなった」に該当するような気がするんですね。あれは悪いこれは悪いって言うばかりで、知識や過剰な栄養で肥えて弱くなっているような。

私の人生を生きるとき、私の人生を生きることに。他人に依存してはいけません。

おっしゃる通り。
依存すれば、例えば期待を裏切られて怒ったり、悪い事があれば他人のせい、みたいになりますからね。

政治が未完であれ、一人ひとりの末端の人の意識が変われば、なんとかやっていれば、それで政治と関係なくナスビやお米が育ってくれますものね。そのへんの所がわかれば、政治が今どうであれ、あまり気にしないで、とにかくやれますわね。

これもおっしゃる通り。
米や茄子が育って、水があって、空気があれば、デフレだろうがインフレだろうが生きていけます。 この辺は家庭菜園を始めた動機みたいなものです。

生命界すべて、先の生命が終わるころに次の生命が用意されていて、つねに重なっている。

そうそう、用意されてる。

自然界において人間以外の生命は、ほとんど貪らなくて足ることを知ってると思うのです。私たち人という生き物の性には、貪る性があります。必要以上に貪って我が生命、多くの生命を損ねているわけです。

性なんですね。「足る事を知れ」って子供のころに祖母に言われましたけど、意識する、あるいは解らないとできないんでしょうね。

何かの仕事をしてですよ。それが生きがいになるのはちょっと外れていると思うのですよ。基本のところでは生きていることがそのままよろこびになる。生きていることがそのまま生きがいになる。

これは最近になって解ってきたこと。よく自分探しなんて言う人がいますが、なぜそんなことをするかというと欠乏感ですよね。何かが足りない満足できない、まだまだやれることがあるんじゃないかって思ってるから。「生きてるだけで儲けもの」みたいな事を言う人がいますが、儲けるとかっていう以前に生きてることがありがたい、その生を生き切ることが楽しい。

他を冒すことは、言いかえれば我が生命を冒すことと同じです。空気を損ねたら、川の水を損ねたら、山を損ねたら、我が生命を損ねることと同じなのですね。

これはなんとなく子供のころから思ってた。思ってたけれどそれを忘れて過ごしたことはある。車やオートバイで遊ぶときも、なんとなく空気を損ねてるっていう気持ちがどこかにあった。ゼロにはできてないけど、極小にはできたかな。まだ見直せるところはあるからこれは引き続き努力だな。

絶対界に立って全体を見渡せなくなっている。それは人としての生命体の退化です。そこに宿る智恵と能力も十全に働かなくなって、そういう小さなせまい浅い智恵と行動になるんですね。

本来備わってる力が発揮できてないということですかね。本能とか直感とか。

自然農に取り組んでいる人の言葉を集めたものらしいですが、現実世界というのか、生命界の実相というのか、そういうものを把握するのに、自然農をやっていたら「自ずと」「解ってきた」。そういうことなんだろうと思います。