時々、学校の先生が卒業式などで君が代を歌わないのが問題視される報道がされるときがあります。
そういう報道を見聞きして、国旗国歌を尊重しない敬わないのはけしからん、愛国心がないとか反日だとかって言って怒る人がいるわけです。
正確にはわかりませんが、ずっと前から日の丸は日本の国旗で君が代は国歌だったので、国旗を掲揚し国歌を起立して歌うのは当たり前だと思う人がたくさんいます。
でも、時々そうではないと思う人が出てくるわけです。

僕は国旗国歌を大事に思っているので、常日頃から国旗を部屋に飾っているし、国歌を歌う場で歌わなかったことはありません。でも、最近、こういう論争を見ていると、ちょっと違うんじゃないかと思うことがあります。

国旗国歌に反対する人は、それが国家への忠誠を強要されていると考えるから。そういう話をよく聞きます。

そもそも国旗国歌とは何?

日本のような伝統国家、建国以来長い年月を1つの国家として存在してきた国家では、「家」という字が使われているように1つの家、みんなが家族だという認識があるからだと思います。革命が起きて統治構造が大きく変わったわけでもなく、変容をしているとは言っても同じ言語を使い、文化も失われず蓄積されてきている。多少の例外はあるけれども。
パリのようにケルト民族が住んでいたところが他の民族に制圧されて抹殺されたり、アメリカ合衆国のように原住民を虐殺して成り上がった国と違う。統治構造も言葉も民族も変わってる国と日本は違う。

日本では、天皇祭祀が滞り無く行われています。
命を繋いでくれた祖先に感謝し、生命の源を提供してくれる自然に感謝するのが祭祀の原型で、それを君主である天皇陛下が続けておられる。祭祀国家なんですよね。統治者が祭祀の主なんだから。
この天皇を軸にして集まって暮らしているのが日本人です。
ありがたくない坊さんのありがたそうな話をありがたがって聞いている人もいるでしょうが、根っ子のところには天皇祭祀と同じように、祖先への感謝とか自然への感謝の心を持ってみんな生きてます。大方の日本人は。
我々には実体として軸があって、統治者と我々は同じ軸を共有している。

ところがアメリカ合衆国のような国には、そういう実体として軸がない。
軸がないと集まれないしまとまれない。
じゃあ、軸を作りましょうというのが、国によって多少は違うかもしれないけれど、国旗国歌(シンボル)だったり、宗教(教義)だったり、徴兵制(国家への忠誠を試す制度)だったりするわけです。

日本で「国旗国歌」を強制することは、必要ではないのかもしれない。
もちろん反国家的な行為、革命などを起こす勢力を牽制する必要はあるとは思うけれど、強制しなくたっていいんじゃないのか。
強制しなくても自然に国家を大切に思う心を育てることが優先ではないか。
強制されなくても国歌を歌えるようになるのが優先ではないか。

この国旗国歌問題を見るにつけ、そう思うんです。
「国旗国歌を大事にしない教員はクビだー!」って言っても、我々の軸である祭祀の心を持って実践している人ってどれだけいるんでしょうか?
そういう自分がどれだけやっているかと振り返ってみると、自分が作った野菜を亡くなった祖母(を中心とした祖先)に供えるとか、ご飯を食べる時に感謝の言葉を口にするとか、だいたいそんな程度。こりゃいかんと気がついて、少しづつ祭祀的な要素を生活の中に取り入れるようにはしているけれど。

あまり読む人がいないとは思いますが、大日本帝国憲法の告文を読むと、いかにも祭祀的な文章なんですよね。
皇室典範(明治典範=正統典範)も祭祀の実践を継承するという要件があるし、皇室祭祀令なんていうのもあります。
教育勅語も祭祀の実践が書かれている。

これらは日本国憲法の制定と同時に廃止されました。
大日本帝国憲法も皇室典範も「不磨の大典」と呼ばれるように、勝手気ままに変更できないものなのに、勝手に変えてしまった。法的には無効なので、本当は今の日本国憲法も皇室典範も偽物なんです。

祭祀国家が祭祀の実践を怠っては祭祀国家たる要件を満たせない。
祭祀国家の要件であるものを、力づくで変えられたことに怒らない日本人。
なぜ取り戻そうとしないのか。
国旗国歌の問題は表面的なものだと思うんですね。
本質的な問題はそこじゃない。

偽物憲法と偽物典範を使いながら教育ができるのか。
子供たちを導けるのか。
たぶんここが正されれば、国旗国歌に反発する教員などは減ると思う。