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國體が断絶していないから憲法も連続しているなんていう、わかったようなわからないことを言う人がいますが、このような人がテレビに出たり本を出版したりして毒をバラまいているのだから保守論壇は死んでますな。とっくの昔に死んでますけどね。反左翼を煽れば金になるというだけの人ばっかりだから。

國體は連続しています。
かろうじて。

皇室は存亡の危機にありますが、かろうじて天皇陛下がおられ元首として認識されている。
日本国憲法は天皇陛下を元首として明記していませんが、実質として天皇陛下は元首として認識されている。だからいいんだっていう話じゃないけどね。
皇室が存亡の危機にあるのは、皇室の家法たる皇室典範が本来のものから日本国憲法の下位法に貶められているから。そういう見方ができます。なぜなら皇室の不文法たる祖法を近代国家になる過程で明徴にしたのが皇室典範でしたから、祖法を曲げた現在の皇室典範は、必然的に法的に皇室の在り方の変化を求める方向に行きます。現に、女性宮家を作ろうだの、女性宮家に反対だのと、やる必要のない論争が起きてるじゃないですか。皇室の在り方を論じあってるわけですよ。女性宮家に反対だ伝統を重んじろと言いながら、皇室の在り方を論じるという舞台に登ってるわけ。謹んで本来の皇室典範(祖法にのっとったやり方)をお戻ししますというのが筋でしょ。

現在の皇室典範は明確に國體(の一部である皇室)の連続性を保証しない。
これに対して國體(の一部である皇室)が現在も存在しているんだからいいんだっていうのはかなり乱暴な考え方です。

かろうじて國體が維持されていると書いたのは、原発に関する論争を見て思ったことがあるからです。

脱原発というのは方向性を表す言葉です。
脱原発と言ったからっていきなり全部なくすという極端なことを考えるのはおかしいし、そういう人は少ないです。ゆくゆくは原発ゼロに向けて取り組もうと言ってるだけ。原発がゼロになったらと、今すぐにでも原発がなくなったらという前提でヒステリックに騒ぐ人ってなんだろう?被害妄想ですか?

今日も玄海だったかな、原発がなくなったら財政が厳しくなるから国に対応を求めたいなんていうニュース記事が目に入りましたが、こういいう交付金や補助金に依存した体制を作ってしまうのは問題です。原発を受け入れた自治体にはこの構図が必ずあるでしょう。腐った構図ですけれど、原発に限らずあちらこちらにありますね。脱原発という方向を目指す人は、この構造そのもをどう変えるか考えるといいと思います。(そんな投稿も過去にしました)

ここまで、余談でした。

未だに原発に関して脱原発がいいとか推進した方がいいとか議論していますがなかなか両者譲りません。
共有している価値観が違うから。

1.自分の家で出したゴミを他人の家の前に捨てる。これはノーです。法律で罰せられるという以前に普通やらない。やらないようにしようと考えることです。
2.捨てる場所がないのがわかっててゴミを出す。これもノーです。
3.面倒なことや汚いことは他人に押し付けて、自分は快適に暮らす。これもノーです。
4.責任が取れないことをやっておいて、いざ問題が起きたら逃げる。これもノーです。
こういう道徳観のようなもの、言われなくてもやらないという気持ち。不文の法ですよ。
これがどうも怪しい人がけっこういるのが不思議でならないです。
1〜4が全部YESの人なんている?剥き出しの欲望だけで生きているような人っている?
普通、恥ずかしいとかみっともないとか思いますよ。

以前、このブログで「もったいない」という言葉の意味みたいなことを書いたことがあるけれど、「もったいない」も不文の規範です。

こういう不文の規範は國體の一部ですから、その部分が怪しいというのを見ると國體が維持されているのかを多いに疑問視せざるを得ないです。
恥ずかしいとかみっともないという心の働き(抑制力、規範性)も國體の一部です。日本が日本であるための、日本人が日本人であるための規範の一つです。
あえて「普通、恥ずかしいとかみっともないとか思いますよ」と「普通」と書いてますけど、「価値観を共有している」を普通という言葉で表現してます。こういう価値観を共有できるかどうかが日本人か日本国籍人の分かれ目だと思う。
國體が連続していて、その連続した國體の下でみんなが追認したから、無効な日本国憲法だって憲法として連続性がある?
全部疑わしいよ。
稲作文化。これも國體の一部です。最近、米を食べる人が減ってきています。
日本語。これも國體の一部ですが、随分変質していますし、本来の正漢字仮名使いが読み書きできる人は少ないです。(僕は読める程度)
家族。これも國體の一部です。おじいちゃんおばあちゃんが同居している家ってどれくらいあるんでしょうか?
國體の連続性って疑わしいですよ。
ここが疑わしいなら、「連続した國體の下のみんなの追認」 も当然疑わしいし、「だから」「憲法に連続性がある」に至っては虚妄でしょうね。
こんなことを書いてる僕自身も疑わしいわけですが。
やっと4号機のボディトップのアーチの形状が決まってきました。
もう少しかな。ノミを使っていた右手が腱鞘炎になってしまったので、最後の仕上げは左手で。

この写真だとよくわかりませんが、本物は製作中のものより、もう少し表面がなだらかなアーチになっています。
例えばGibsonのフルアコのようなアーチトップ ギターの場合は、いくつかのアーチの形状のテンプレートみたいなものをボディに当ててアーチの掘り具合を確認するようですが、テンプレート作る為のデータ(図面など)が手に入らなかったので、本物をお手本にしてデッサンするような感覚で作業をしてます。

人間の思い込みというのはいい加減なもので、お手本のアーチの形を目に焼き付けるようにして彫ってみても、なかなかお手本と同じにはならない。頭の中で勝手にアーチの形を作ってる。絵を描く人ならわかると思う、この感じ。
時には自分の思い込み(認識)を否定することも必要です。

自分の思い込みを否定できないと、その思い込みで見たものが現実で、その現実を見て判断して考えるわけだから、思い込みから抜け出せないのですよ。
「國體が連続しているからいいんだ、無効な憲法でも連続性があるんだ」みたいなのも、そういう仕組みの中から抜け出ていないことが原因の現象ですかな。

4号機はボディの成形中。

18mmのメイプルトップをノミで彫って大雑把に形を作り、その後はヤスリやサンドペーパーで形を整えていく。
休みの日は延々8時間とか、飲まず食わずで木を削る。腱鞘炎になりそうだったり掌や指の皮が剥けそうになったりしますが、痛いのも忘れて時間も忘れひたすら彫る。まあ、力仕事ですね。

こちらは色付けが終わった3号機。

この後、クリアラッカーを重ね塗りして乾燥したら磨いて塗装が終了。電気部品を配線し、金属部品を取り付けて完成です。
まだまだ塗装行程は先が長い。こちらはもうあまり力仕事はありません。

アマチュアのギター製作者でも、例えば非常に高度な治具を使ってボディの加工をする人もいます。そういった治具を作るのも楽しいし、自分が使い易い治具を考案するのもその製作者の技術の一部です。
僕などは、治具を作るための道具も十分ではないし、治具や道具を買うお金もないので、少ない道具で加工する言わば「力づく」なわけですが、住宅街の普通の部屋で音が出せないので、静かに作業しようと思うと、高価な高性能な電動工具があっても使えませんから、手道具で作業するのは宿命みたいなもの。そういう現実を受け入れた上で、次にやるときはもう少し楽に作業ができるように、もう少し速く作業ができるように、道具を揃える、道具を調整する、道具を作る、治具を作る、腕も磨くなんていうことを、少しづつやるわけです。この少しづつというのが楽しかったりするので、豊富な資金にモノを言わせて設備を揃えられなくても、毎日楽しく取り組めます。
無いものを無いと嘆いても前に進まないので、在るものを最大限使って前に進む。コンスタントにそうやっていれば、作業時間は何倍もかかるかもしれませんが、所要時間で比べたらそんなに差はないかもしれません。体力があれば集中力も持てますし忍耐力も持てます。淡々と諦めずにやるという姿勢は体力があれば維持できる。はず!笑

少なくとも、今後新しい道具を手に入れる場合も、楽に作ることが目的ではなく、より良いものを作るのが目的でないと意味がないかなと思いますし、新しい道具を手に入れても、その分、品質や工夫を凝らす部分が増えて、製作時間自体は変わらないかもしれません。

新しいものが何でも良いわけではない。
科学技術の進歩が人間を豊かにしてくれると信じて疑わない人もいますが、進歩と呼べないものもたくさんあります。

僕が勤め始めた頃、会社のコンピューターは大きな会社ならメインフレーム、小さな会社ならオフコンが主流でした。
パソコンはワープロと表計算をするための文房具の延長みたいな位置づけだった。
この頃のコンピューティングはメインフレームやオフコンが計算をして、パソコンはそのための入力装置/表示装置。集中型だったわけです。

ミニコンに始まってUNIXワークステーションが普及し出すと、パソコンを入力表示のための装置としてではなく、計算処理の一部を行うクライアントコンピュータとして扱う、クライアントサーバーというコンピューティングスタイルになった。

その後、Webコンピューティングというスタイルが広まって、またWebサーバーに処理のほとんどを行わせる集中型となり、最近はJavaScriptなどを使って再びパソコン側で計算処理の一部を行うクライアントサーバーというスタイルに以降している。

味付けを変えながら行ったり来たりしているように見えますね。
それぞれの時代で、新しい要素技術が現れると、それを利用して既存の技術を焼き直すみたいなことの繰り返しです。そうやって全体としては進歩したように見えます。本質はほとんど変わってませんが。

Macintoshとレーザープリンターが登場して、AdobeがPostScriptというページ記述言語を出して、一気に印刷業がデジタル化しました。PostScriptはLevel1からLevel2とバージョンアップし、Level3をPDFという名前に変えて出してきた。複雑化、整理、洗練などを繰り返してここまできています。これも技術の本質はそれほど変わってません。

どんな高度なコンピューター設備を持っていても、使い物にならないソフトウェアは作れてしまうし、どんなに良いDTP設備があっても、中身が駄文ばかりなら意味が無い。ソフトウェアを作る人、文章を書く人、絵を描く人が良くないとダメなのは自明ですし、魂の入らない仕事はなかなか良い仕事にはなりません。適当にやっつけて仕事をするよりも、全身全霊を傾けてやる仕事の方が面白いはず。

 

江戸時代の車夫は客を乗せた車をひいて江戸から日光までを15時間で走ったそうです。
150kmくらいあるでしょうか?
そんな長時間だと乗せられている客の方だって疲れますから、客も車夫も何度か休憩も取るでしょう。おそらく走っているときはマラソンのペース(時速20km)よりも少し遅いペースじゃないでしょうか?

自転車で300kmを走るのは、僕の場合だと15時間くらいです。15時間くらいで走れたときは、走っているときの速度は時速25km〜30kmくらい。江戸の車夫の場合は時速15kmくらいで走ってるんじゃないかなと思います。

そんな江戸時代の典型的な食事は、一日二食(江戸後期の江戸の人は三食になったようです)で、献立は米、みそ汁、野菜一品みたいなのが普通だったとか。肉や牛乳をたくさん食べると持久力が下がるのは体験的に知っていますが、江戸の食事は現代の食事に比べるととても質素です。
いろいろな指標があってその比較はしませんが、カロリーベースで40%とも言われる日本の食糧自給率ですが、廃棄する食糧もカロリーベースでは40%とか。日本で作った分を全部捨てている計算です。

ほとんどの食糧は流通過程で捨てられます。収穫〜出荷の段階で捨てられる物がたくさんある。形が悪いと売れないとか、大きさが不揃いだと売れないとか、そういう理由です。そして売れ残りが捨てられます。コンビニ弁当などが良い例ではないでしょうか。食べ物を工業生産品のように扱うことに疑問を感じます。

控えめに食べて捨てない。
それだけで自給率が上がりますね。

大食いの僕が書いてもあまり説得力がないかもしれませんが、今は一日一食生活で、おかずは割と質素です。晩ご飯でドカ食いをする上に、最近は運動不足でちょっと太ってきました。江戸の車夫のようにはいきません。
自転車で一日450kmくらいは走れましたが、600kmぐらい走れるようになったら、江戸の車夫並みと言われるでしょうか?

無理だな。

 

写真を見る限り前の日とあまり変わっていませんが・・・・

   

手で加工しているので完全に同じにはなりませんが、なんとか同じに見えるように加工しようと思っています。
こうやって写真を撮って並べてみると、まだまだ同じに見えるという状態ではありません。
日曜日に始めたボディ成形ですが、木曜日まで毎日少しづづ作業して、だんだん似てきましたが、頻繁に写真を見ながら確認しているとは言え、思い込みがあって削る場所を間違えたり、削る量を間違えたりして、なかなか同じにはならないです。形状を把握する能力が低いことを痛感します。

木がなくなるまで削ることはないので、必ずどこかで終わる作業ですが、その終わるまでの間にどれだけ丁寧にやれるかが大事です。
大事ですが、なかなかそれができているかというと疑問です。
丁寧にやろうという努力には終わりがありません。削って目で見て、ここをもう少しあそこをもう少し、指で撫でてみて、またここをもう少しあそこをもう少し。そんなことの繰り返しです。ここで終わりというポイントに辿り着くまでに妥協をすることもあります。妥協するときには言い訳を考えたりして。「ここをそんなに丁寧にやらなくても音には関係ない」とか「完成してしまえば見えないところだからいいや」とか。現実主義者を気取るわけですが、本心は「疲れたからもう止めたい」かもしれないし「上手くできないから諦めよう」かもしれません。

まだ下手糞なギター作りですから基準は決して高くありません。
基準が低い上に、先が見えなくて「こんなもんでいいかな」と諦めることも少なくありませんから、完成度が低くなるのは目に見えています。

今はギター作りの練習をしているので、誰かに弾いてもらうためのギターを作っているわけではありません。でも、自分への甘えを放置しておくと、小手先でそこそこ綺麗でいい音が出るギターを作れるようになって、誰かのためにギターを作るようになった時にも、きっと甘えが出るでしょう。そんな自分の姿が見えます。

丁寧な仕事とは丁寧にやろうという心がけを持って取り組む仕事ですから、綺麗な完成品が作れるというのとはちょっと違うと思います。コンピューター制御で加工されたギターがいくら綺麗な完成品でも、それを丁寧な仕事とは言わない。なので、丁寧にやろうという心がけを持って作ったものは、例えば完成したものが多少問題があっても、丁寧な仕事なのではないかと思います。丁寧にやろうという心と、熟練した技術が合わさって、丁寧で綺麗な完成品ができるということ。そういう結果が出せるようになるのが、モノを作るということの目標になるんだろうと思います。誰かのために作るのであれば、その人が楽や快を感じられるモノをということに加わるでしょう。

まあ、とりあえずしっかりと作るのが当面の目標かな。一気に思っているような結果は出せるとはとても思えない。
誰かのためにギターを作るときにも、しっかり丁寧に作ることができるようになりたいものです。

なかなか経済的な問題で道具を揃えられません。とりあえず作れますという程度の道具でなんとかやっていますが、刃物類はもっと切れるものが欲しいし、正確な加工をするための治具をたくさん作りたい。まだやったことがない工法がたくさんあるし、作ったことがないタイプのギターもたくさんあるので、一通り早く経験したい。この調子だと当分ギター作りの練習ばかりになりそうです。

以下、備忘録みたいなものです。作りたい治具と作りたいギター。

【作りたい治具】

  • ペグ穴などを垂直に開けるためのドリルガイド
  • ボディのテンプレート
  • ピックアップホールのテンプレート
  • ネックポケットのテンプレート
  • ルーター用のアタッチメント(バインディング溝を彫る、サンドホール周りのロゼッタ溝を彫るなどのため)

【作りたいギター】

  • Gibson ES-335みたいなの
  • Gibson L-5みたいなの
  • 2号機(PRS Custom 22型のエレアコ)のマトモなの
  • クラシックギター
  • Fender Mustang
  • 子供用、女性用の小さめのギター

静かに何かを作るのはおもしろい。

仕事が終わって会社を出るのがだいたい18時半頃。1時間半弱の通勤なので家に帰り着くのが20時前。短時間で夕食を済ませて、菜園に水やりをしたり生育状況を見て、それから作業用の服に着替えて自分の部屋で23時〜24時まではギター製作の時間。だいたい月曜日から金曜日までは毎晩4時間ほどの楽しい時間を過ごしてから、ブログを更新して寝ます。

オートバイや自転車で出かけたり、キャンプをやったり、海や山へ行ったり。そういうことも好きだけれど、こうやって家の中でゴソゴソと何かをするのも好きです。仕事も好きだし通勤時間も本を読めたりいろいろな人を見たりできて好きだし、好きなことに囲まれて生きているのを幸せだと思います。
振り返ってみると、子供の頃は自転車で冒険に出かけたり、川や田んぼで遊んだりが好きで、家の中で積み木で遊ぶ、絵本を読む、絵を描くのも好きだったので、まあ、子供の頃からあまり変わってないんだなとつくづく感じます。

昨夜は手作りギター4号機のボディの成形をしていました。左の写真が製作中のボディで右の写真がお手本。

このPaul Reed Smith Custom 22というギターはボディトップのアーチ形状が独特です。
角の部分のエグレがデザイン上も演奏性上も効果的で、このアングルから見た形がとてもカッコいいと思っています。
平らなトップ材をノミでチマチマと削って大雑把にそれ風に加工ができたので、次はサンドペーパーやヤスリを使ってもっとそれ風に成形していきます。
ボディ材の引き割り、平面だし、ボディのカット、彫り込みと手間のかかる作業の連続です。

右の写真の本物はトレモロアーム付きの低いブリッジがついていますが、僕はトレモロアームを使わない(上手く使えない)ので、Gibson Les PaulのようなTune O Maticブリッジを着けます。そうするとブリッジが高くなって、ネックの差し込み角が本物より少しキツくなります。計算上は差し込み角を4度にすればちょうどいい高さに弦が張られる筈ですが、加工が下手なのでどうなるかわかりません。2号機と3号機はぴったり3度にネックを接合できましたが、今回もうまく行くとは限りません。早くこういう加工の精度を上げたいものです。

PRSは指板の鳥の形のインレイも特徴的ですが、これも今回はなるべく同じような物を埋め込もうと思います。材料はアワビ。原貝を入手したので、それを製材してからインレイを作ります。これもなかなか手間のかかる作業です。

手間はかかりますが、毎日少ししか作業できなくても2〜3ヶ月もあれば作れるギターです。
本物は結構高価なギターですが、高価なギターを買う金額があれば、道具を揃え材料を仕入れて作ることができます。
作り始めていきなり本物に負けないような音が出せるとは思えませんが、生産設備や道具がある程度あって生産技術が身に付けば、いずれ立派なギターが作れるようになると思いますから、作る楽しみを味わえて将来の楽しみもできて、買うよりも作る方が僕には魅力的です。

日本の経済が停滞していると言われて随分年月が経ちました。
その間、3回リストラされて、職が見つからない期間が延べ4年くらいありました。だいぶ貧しいということに慣れることができたので、今では良かったと思います。死にたくなるくらいの貧乏というのを一度くらいは経験してみてもいいかもしれません。
世の中では景気を良くするためにはお金が回れば良いと考える人がほとんどです。

こういう幻想に取り憑かれていませんか?
景気や生産や消費が伸び続ける(はず)という幻想。
あるいは景気や生産や消費が伸び続けることが「善」である「正しいこと」であるという幻想。

ギター製作などをやっていると、例えば道具はなるべく永く使おうと考えます。 永く使うということは、なかなか買わないということですから、生産と消費は伸びませんよね。お金も動かない。これを不景気だから悪いと言いますかね?
たかがギター製作ですが、やっていくうちに技術が身に付きます。技術も売り買いの商品だと考える向きもあるでしょうが、技術そのものは景気の良し悪しにはあまり影響は受けませんね。「技術を売る 」「技術が売り物」という言葉を使うことがありますが、技術というものは魂を込めて身に付けて駆使するものだと思えば、簡単に売ろうとは思わないでしょう。

日本は高齢化社会と言われて随分になりますが、社会が成熟して安定期に入れば、たくさん子供を産まなくなるのではないかと考えます。
一通り行き渡れば、それを大事に使う限り、そんなに頻繁に買い替えないモノがたくさんあります。
道理から考えると生産・消費が右肩上がりというはあり得ない。
もし生産・消費を上げ続けようと思ったら、一旦破壊するしかない。

お金の歴史や仕組みのことを考えると、金が回れば景気が上がるというのに乗っかっていると、結局、その仕組みを作った人たちのところにお金が集まるだけですね。
その集まったお金で、またお金を生もうと企むわけです。戦争を起こすとか、二酸化炭素地球温暖化説を唱えるとか、ワクチンを公費で助成するとか。そうじゃなくても、日々、もっと買えもっと使えってあらゆるメディアを使って煽る。たくさん買ってたくさん使うことで、お金の仕組みを作った人たちの支配を支えることになる。
自動車にしても家電にしても資本は、国内の需要が増えないことがわかると、海外に出て行って売ろうとする。
資本はそうやって簡単に国境を越えてどん欲に獲物を漁る。

日本は金で大量の石油を買い、外国の戦争の戦費を負担し、世界で一番多くのワクチンを消費している国です。

武士は金勘定を嫌っていました。今となってはお金のない生活はなかなか想像できませんが、お金に執着するのを嫌うという感覚は日本人の多くが共有していた感覚なんじゃないかと思います。今の日本の状況はそんな武士たちからはどう見えるんでしょうか?
地域通貨にすれば現在の通貨システムのルールを変えられると主張する人がいます。
日本を強靭化するためにしっかりインフラを整備しなくてはならないという人もいます。

どちらも手法としては良いかもしれませんが、肝心の思想はどこに求めるのかというのを共有していないとバラバラになりそうです。

僕は「もったいない」ということをしっかり意識するのが重要だと思います。

「もったいないから無駄にしない」「無駄になるものは買わない」「買わないから作らない」

上の幻想にハマっている人は戸惑うかもしれません。
でも心配しなくていいと思います。
生産手段を持てばいいんですよ。そこで投資が起きます。
生産と消費が一体化すれば、無駄になるものは作らないです。
お金の移動が減ってもモノや知恵が移動すれば生きていけるし幸せだと思います。

生きるために食べる。食べるために働く。これがちゃんと回れば十分でしょ。
ちょっと余るくらいに作って、ちょっとの余裕を楽しんで、ひたすら生きる。それで幸せだっていう人は多いと思います。

子供のうちなら躾や教育でなんとかなるかもしれませんが、大人になると知識がこびりついていてなかなか落ちません。
頭でっかち、理性に対する万能感みたいなものがなくならない。それが幻想を生みます。
幻想の上に生きて行くか、生きるということそのもを真剣に追求していくか。
曲がり角にきているように思います。

日本にとってお隣の支那が大国で、支那からの文化や文明を吸収して、和の心で物造りをしたり物を書いたりするのを和魂漢才と言っていましたが、西洋の文化や文明が押し寄せてきて、後に和魂洋才という言葉が使われるようになった。
どんな文明や文化でも、それが良いと思う、あるいはそれが好きならどんどん取り入れて行く柔軟性はあってもいいと思うけれど、そういうものが大量に押し寄せてきて圧倒されてしまうと、自分を見失うかもしれないという不安があるのかな。そういうときに和魂を確認しないと落ち着かないみたいな気分になるのかもしれない。

中学高校の頃は洋物の音楽ばっかり聴くようになっていた。何がきっかけだったかは忘れてしまったけれど、ギターを弾きたいと思うようになったのがその頃。Deep PurpleとかJeff Beckとかをコピーして弾き始めた。日本の音楽にも興味はあって、四人囃子とかいろいろと聴きかじったりはしていたかな。

子供の頃から言葉を扱うのが苦手。文字は間違えるし文章は下手だしで、国語のテストなんかを受けたらいい点は取れない。歌が下手だということもあって、ボーカルが入った曲が嫌で、バンドで演奏する曲もボーカル無しのものが増えていった。やまと言葉で書かれた文章を見て、なんとなくいいなぁとは思うけれど、ただでさえ言葉を扱うのが下手なのに、なおさらやまと言葉を使いこなせていないから、和魂はやまと言葉にあり!なんて言われたら失格かな。

和ってなんだろう。
よくわからない。

よくわからないけれど、昨年から始めた家庭菜園とギター作りは、和の風味を取り入れてみている。試行錯誤だ。
ギターという洋物を作るわけだから洋才であることは確かなんだけど、果たして和魂があるかどうかははなはだ疑問。疑問だけれど、可能な限り日本の道具を使うようにしている。何か掴めるのではないかという淡い期待を持って。

エレキギターを作るときは一定の深さに木を彫るという加工がいくつかある。
ピックアップを取り付ける穴、ボリュームやトーンなどの操作系部品を取り付ける穴、ネックを接合する溝など。
3号機のLes Paul Double Cutでノミで加工しようと思って途中でめげました。穴が深くなると手持ちのノミでは削れなくなるし、あまりに時間がかかるので諦めました。そういう部分は仕方なくトリマーを使うことにしている。いずれ道具を揃えて再挑戦するつもりだけれど。

トリマーは音がうるさいので土日の昼間しか使えません。
いつも金曜日までにテンプレートなどを準備をしておいて、土日に一気にトリマーを使う作業をやります。

先週末はトラスロッドの溝、ピックアップの穴、コントロール類の穴を彫りました。
これらの作業はテンプレートやガイドを使ってトリマーで彫りますが、最後の仕上げは手作業。

コントロール類の穴の蓋をハメる部分は、陽が落ちてしまったので手彫りに切り替える。
出来上がってしまえば見えない部分だけれど、手道具で加工する部分はとにかく丁寧にやろうと心がける。加工した結果は熟練度に左右されてしまうけれど、熟練していようがいまいが丁寧にやろうという気持ちが大事だって思う。(大雑把な性格なので、これがけっこう大変なんだけど)

そしてボディトップのアーチ。
3号機でも緩いアーチを作りましたが、今度のギターはかなりはっきりしたアーチがあって、デザイン上も重要な部分。
ギター作りの先輩たちは、いろいろな道具を使って削るのだろうけれど、この作業に使えるのは平ノミと丸ノミがそれぞれ1本づつ。4時間も集中してやって下の写真程度にしか彫れませんでした。

このギターはボディ材の引き割り、鉋がけ、そしてこのアーチ削りと手道具でやると大変な作業ばかり。
毎日道具を握る右手の握力がなくなるような状況で肉体的には辛い。
変人と言われるかもしれませんが、僕にとっては「辛いは楽しい」なので、これはこれでよし。 こんなことをできるのも頑丈に育ててもらったからこそ。ありがたいと思う。
困るのは握力がなくなるので、よく手に持っているものを落とすこと。ほぼ毎日iPhoneを落としてます。壊れなきゃいいなー。

PRS Custom 22タイプのギターを作る http://wp.me/PKQj5-IG

 

ギター作りにだって「道」みたいなものがあるかもしれないです。
情報に振り回されず、人と比べず、自分がやりたいと思うようにやってみて、その中から何かを掴むことができるかもしれない。淡い期待ですけどね。

最近、生産性が高いとか合理的とか、そういう言葉が好きではなくなってきたというか、胡散臭く感じるというか。
文脈によって変わるかもしれませんが、生産性が高いというのは「時は金なり」だったり「安く上げる」だったりする。そして合理的というのは、ほとんど利益が上がるというようなニュアンスを感じる。どうもそういう言葉を使う人たちはそういう考え方が癖になっているように思う。
ひどいのになると、生産性が低いのは悪い事、合理的でないのは悪い事になってる。
どちらもお金に換算して、損か得かみたいなところに行きそうな勢いです。

生産性が悪かろうが合理的でなかろうが、どっちでもいいと思うけどね。たとえそれが仕事であっても、金に換算してどうだみたいなものだけじゃない。

生産性の高い結婚とか、合理的な恋愛みたいなものはみんな否定するだろうと思うけれど、仕事だって生産性が高い=収益率が高いということと、いい仕事をしたか人が喜んだかというのは比例しない。いい仕事をすれば、長い目で見て利益になるということはあるだろうけれど、そんなに先のことまで読めるわけじゃないから、長い目で見てどうかというのは、心がけだったり思想だったり哲学だったりと、生産性とは関係のない事柄でしょ。
安く速く大量に作って売って利益を上げて、みたいな構図に乗っかって生産性や合理性を言ってるのは虚しいよ。
そんなのがいつまでも続くわけがない。 普遍性がなくて胡散臭い。
冒頭に書いた胡散臭さはこういうところから感じるんだろうと思う。

ゴールデンウィーク前半は風邪気味で、仕事がカレンダー通りなので無理をせずに養生して、ギター作りに取りかかれたのは後半に入ってから。
あんまり道具を持っていないということもありますが、なるべく手道具でやれるところはやってみようと。
そんな感じで取り組んでいるギター作りです。生産性が悪い方法です。合理的でもないかもしれません。

ゴールデンウィークに入ってから自作4号機に取りかかっていますが、初めて挽き割りというのをやってみました。やってみたかったんです。
これが無謀というかなんというか。ノコギリが寸足らずな感じで、ただでさえ切れ味の大したことがないホームセンターで購入したノコギリで、幅広のマホガニーを挽き割るというのは大変でした。

延べ20時間ぐらいノコギリを挽いたでしょうか。指や掌の皮が剥ける寸前。
これは2度とやりたくないかも。

綺麗に挽き割ることができていないので、鉋をかけてこれを平坦にするのに10時間。その後、サンドペーパーで平面を出すこと2時間、糸鋸でボディーの形にくり抜くこと2時間、ヤスリで大雑把に外周を整えるのに2時間。だいたいそんな感じ。

トップ材をボディーの形に切り取るのは、厚みが薄いということもあってそれほど大変ではないですが、ボディーのバックとトップを接着した後で外周を綺麗にヤスリやサンディングペーパーで整えるのがこれまた重労働。

ここでゴールデンウィーク終了。
もう少しボディーの成形に時間がかかります。

この後、ピックアップホールを座ぐって、ネックポケットを座ぐって、コントロールキャビティーをザグって、パーツの取り付け穴を開けて、それからボディトップのアーチを彫るという流れか。

3号機の塗装もやらないといけないけれど、塗装は好きじゃないので腰が重い。

生産性が低くて合理的でもない作業ばかりだけれど、これがまた楽しいんだな。
お金を使わないことでお金で買えないものが手に入るみたいなのも快感。
毎日が幸せ。

埃が大敵

昨日は仕事から帰ってすぐに塗装の一部やり直し作業にかかりました。

綺麗に塗れたかなーと思っていましたが、朝起きて見るとダメ。

用心していたのに埃が付いてしまった。塗り直した部分の色が若干周囲の色と違う。
ダメですね。
全面塗り直しです。

苦手意識がいけないと思ってましたが、ただ苦手なだけなのかもしれません。

つい最近も「日本国憲法は無効だから破棄してしまえ」と言って話題になった石原慎太郎東京都知事ですが、今度は都が尖閣諸島を買い取るために地主さんと交渉をしているとか。こういうまっとうなことをどんどんやって欲しいと思います。

石原都知事は時々「幼女の萌え画像で喜んでいるオタク」からは嫌われますが、そういうことを含めて僕は石原都知事はまともだと思う。自分が好きなものを否定されるのは誰だって嫌なものだけれど、エロ本なんていうのはコソコソ見ればいいもの、コソコソ見るからいいものなんだから、そんなものを見せろーっていう主張をする方がおかしい。おっぱいが大きい幼な顔の絵なんかでムラムラして、実存する女性にはアプローチできないなら、そのことの方がよっぽど問題です。
「エロ本はダメ =思想検閲」っていうプログラムがされてるんですよ。石原都知事自身はそんなつもりで発言しているわけでなくても、そういうプログラムがされた脳は、石原=思想検閲=危険人物という答えを出す。

これは現代の典型的な問題だと思うのですよ。

「おっぱいが大きい幼な顔の少女」は思考が作り上げたものでしょ。そんな女性はほとんどいない。「考える」ことから生まれる像なわけ。実存する女性と交流することは「知る」こと。観念の世界と現実の世界の違い。
観念の世界で行われた刷り込みが、現実の世界の体験を邪魔する。

あらかじめ決められた方程式が思考の過程で引き出されて答えを出してしまう。
そういう人の「現実論 」なんて聞くにあたいしない。もしそういう傾向がある人が「現実は」「現実的に」なんていう発言したら、「それはあなたの思い込みが認識している現実でしょ?」と返してみる。教えるという意味で。それが面倒なら無視するのが適切です。

思考と直感、認識と意識は常時交信してお互いにフィードバックを繰り返しながら物事を知って行く。

あらかじめ反応の仕方をプログラムされた思考、その思考の上での認識をすることばかりになると、簡単に操られますよ。

先日も「ワカメを食べ過ぎると女性は甲状腺ガンになりやすい」という報道がありました。
これがプログラミングです。
過ぎると悪影響があるものは多いです。だから「ワカメを食べ過ぎる」のは悪いのかって信じてしまう。
でもよ〜くニュースを見て、よ〜く考えてみると、「過ぎる」ってどういうことかって明確じゃないでしょ。
こういう曖昧な部分は、だんだんと無視されて、「ワカメを食べるとガン」というプログラムが出来上がって行く。

日本人の食生活は玄米、塩、味噌、野菜、海藻、魚みたいなもので組み立てられたものが多いです。広島長崎に原爆が投下された後に、人々への放射線の影響が少なかったのはその食生活によるものだという報告もあります。
「ワカメを食べるとガンになる」が放射線の影響から逃れる手段を封じる手口かもしれない。僕はそう直感しました。

「広島長崎に原爆が投下された後に、人々への放射線の影響が少なかった」と書きましたが、これを「放射線の影響は気にしなくてよい」に都合良く変換するのも、プログラムされた脳の働きです。「日本人の食生活のおかげで」が抜けるとミスリードになる。
おそらくワカメの次も何か仕掛けてきますよ。

落ち着いて対処しましょう。
日本人らしい食生活をしたって困ることはないんだから、そのように食生活を変えてみればいい。
スーパーで売ってる野菜の放射性物質が心配なら、自分で栽培すればいい。
心配や不安を煽るのは、上に書いたプログラムのスイッチを押すことですから、スイッチを押せないようにすればいいです。
麹がいいと言われると麹を作り、乳酸菌がいいと言われると乳酸菌を作る。それも別にいいけれど、それも一種のプログラムです。やってみること経験を積む上で大事なのでやってみるのはいいけれど、もっと特別なことをせず当たり前のことをして、静かに周りの状況を見る方がいいと思います。

 

 

手作りギター3号機は塗装中ですので、ラッカーが乾くまでの間は手出しがほとんどできません。せっかちな自分としてはこの行程があまり好きじゃない。

昨日はできることを探してちょっとだけ作業しました。

コントロールキャビティーにノイズ対策のための銅テープを貼ってから、トラスロッドカバーの取り付け穴を開けた。
どちらも数分の作業で、特に難しいところはありません。

特に難しい作業ではなくても手を抜かずにやるというのが苦手です。
適当にやればできるっていう過信があるためか、どうしてもいい加減にやりがち。

上の写真はトラスロッドカバーに穴を開けたところのもの。
取り付けネジの径をノギスで計って、適切な径のドリル刃で、適切な位置に定規などを使って正確に印をつけて、カバーが動かないようにしっかり固定して、ドリルでゆっくりまっすぐ穴を開け、最後にネジの頭が出っ張らないように面取りをして終了。
さすがに指差し点呼みたいなことはしませんが、静かに心の中でその作業ステップを確認しながらやる。

ちなみにこのトラスロッドカバーは完成品が売ってます。
写真のようなロゴが入っていないものだと300円もしません。
製図を描いて切って削って磨いて穴を開けてという作業だから1時間以上かかってるかな。
既製品で手に入るものなら、それを買ってくればおしまいですが、こういう加工を一度は経験しておかないと、似たような別のものを作るときに戸惑います。

今、現実だと思っていることは、人によって違います。人によって違うとういことは現実は一つではないということです。これは人の認識が現実を作っているからです。

よく「現実的に考えて」「現実を見れば」みたいな言い方をする人がいますが、大抵そういうのは「自分の思い込み」からくる認識であって、そんなものを理由にああしろこうしろと言われても困るわけです。

例えば在日という文字を見るとすぐに反日と反応してしまう人がいます。在日外国人だって日本が好きな人もいることは、ちょっと考えれば誰でもわかることなのに、在日外国人が何か問題を起こすと、自分を棚に上げて、それ見た事かと鬼の首でも取ったかのうように小躍りして批判する人。
在日外国人の犯罪などをたくさん見せられて、在日=反日、排除しろというプログラムが埋め込まれているんです。

こういう脳の働きは誰にでもあります。
遠くまで歩いて買い物に行くのが面倒だと思うように、考えることも面倒なんです。だから考えなくてもいいという楽な方法を人は選びがちです。そのために、一定の認識を使い回して、なるべく考えないで答えを出そうとする。

こういう人は権力者から見れば操りやすい。
単純な反応のパターンを繰り返し見せるだけでいい。
権力者がメディアを掌握しようとするのもそのためです。
マスコミなんか信用できないと言っておきながら、そんなマスコミの情報でもプログラムされた脳の入力に適合すると信じてしまう。
その人にとっては信じたいことが現実であって、信じたくないことは考えない。
テレビに文句を言うのにいつまでもテレビを見続ける人なんかは重傷です。

二元論というものがありますけれども、自分がシーソーに乗っていると思えば理解は容易です。
ギッタンバッコンと上がったり下がったりするシーソー。
自分が見ているのは相対する何か。
改憲か護憲か。自民党か民主党か。そういう対立軸がありますよね。
これらはシーソーの一方ともう一方に乗っている人みたいなものです。
シーソーの相手側に乗っているものが自分が見えるもの。その見えるもので自分の認識を組み立てる。

意識の上では「こんなもん憲法じゃないよ」とか「自民党も民主党もどっちもダメだ」とか感じてるんですよ。
でもシーソーに乗って上がったり下がったりしてるから、認識がその対立軸の外に出て行かない。
行き場のない不満がたまって行くでしょ。
だから愚痴ばっかり文句ばっかりになっていく。

この愚痴ばっかり文句ばっかりの人たちに、恐怖や不安を見せて情動的に行動をさせる。
そのように利用されるんです、このシーソーは。

意識の世界は直感の世界だし本能の世界です。
意識と認識が接続できない、接続が弱いということは、どこかで理性が作り出す認識が意識を遠ざけている、軽んじているからです。相対的に本能が劣化してるんだと思います。
そんな状態だと、ネットという仮想空間だけでなく、ネットの向こう側の人も仮想空間に住んでいるようなもの。思い込みの認識で考えてるんだから。自分の思いたい現実を認識してるんだから。

シーソーから離れてみると、シーソーに乗っているときは違う景色が見えてきます。
シーソーで対面している人たちが、同じ事を違う言葉で言ってるだけみたいなこともあります。
日本国憲法というシーソーの上の論争、従米政治家が集まった政党というシーソーの上での論争、あるいは官僚に手玉に取られたシーソーの上での政治家同士の論争。どっちもどっちなんだ。それを比べて、あっちがいいこっちがいいなんていうのは馬鹿げた話なんです。

離れて見る事をオススメします。
そして意識と認識の擦り合わせをすることをオススメします。

 

 

昨日はゆっくり丁寧にボディーのマスキングをして、トップに金色のラッカーを塗り直しました。

写真は久しぶりにデジカメで撮ったものです。
iPhone 4Sのカメラはよく写りますが、ホワイトバランスの調整ができません。
だから金色は見たままの色で撮影するのが難しいです。

ボディトップの金色はこれで3回目の塗装です。2回目のやり直しとも言います。
キラキラ光って粗が目立つような気がしてとても難しい。
この塗装はまあまあ満足が行く状態にはなったかなという感じ。

乾いたらバックとネックの中塗り(色付け)をして、全体にクリアラッカーを何度か塗って仕上げに入れます。
音が出せるまでもう一息。

今月は給料が出たら次に作るギターの材料の調達に入ります。

今日は朝早く起きてギターの下塗り。
土曜日にボディの表以外にサンディングシーラーを塗ったので、今日はボディの表にサンディングシーラーを塗って、全体を研いで下塗りを終わらせ、できれば中塗りに入るという予定でスタート。

サンディングシーラーをサンドペーパーで研いだボディー。今回は2号機に比べると失敗もなくすんなりと導管も埋まりボディの表面がツルツルになりました。

ボディの表は金色にします。
金色のラッカーの発色が良くなるように、まずは白いラッカーで下塗りをしたところ。

一度ラッカーを厚く吹き過ぎて垂らしてしまい、サンドペーパーで削り取ってから塗り直してます。塗装は難しい。

ヘッドは汚れないように、薄くクリアラッカーを吹いておきました。

白が乾いたので金色を吹きました。これが1回目。乾いたら塗装面を研いで塗り重ねます。

本物のGibson Les Paulはこんな色ではありませんが、ホームセンターで買えるラッカースプレーだと同じ色にはできません。本物っぽさに拘るならアウトです。いずれコンプレッサーを手に入れたら、本物っぽい色で塗りたいと思いますが、今回はこれで諦めます。

ギター制作記はこちら。
http://wp.me/PKQj5-H0

午前中、サンディングシーラーの乾燥中に春蒔きの種を蒔きました。

昨年始めた家庭菜園ですが、今年は多品種少量栽培をします。
今日蒔いたのはこんな種。

ピーマン、アスパラガス、キャベツ、長ナス、丸ナス、ミニトマト、人参2種類、小松菜、メロン、カボチャ。

これらの種は4〜5月に蒔くものですが、今年は少し涼しいようなので、ちょっとだけポットの周りを保温するつもりで、 木枠で作った床の中に腐葉土などと米糠を敷いて、種をポットに蒔いて、その周りを水を入れたペットボトルで囲いました。 今年は作る機会がを逃しましたが、来年は太陽熱温水器を作って温床を準備しようかな。
5〜6月に蒔く種があと4種類ほどありますが、今日蒔いた種が発芽して葉をつけたら植え替えますので、それから残りの種を蒔きます。

狭い菜園なので、今回蒔いた種が全部発芽しても植えきれませんので、植え替えのときに間引きをしてしまいます。
植え替えできなかったものは、どこか近所の空き地にでも植えてしまおうと思います。笑

発芽し始めると毎朝菜園を見て回るのが楽しみです。
うちは土に多少の腐葉土を混ぜますが、それ以外は井戸水だけ。
土と水と太陽があるだけで、どんどん成長する植物の生命力って凄いなって思います。

今の生活は、平日は朝から夜までサラリーマンとして働いて、帰宅後にギターを作って、毎日朝起きると菜園の野菜を見て、土日はほぼギター作りに没頭して過ごしています。これだけでほぼ精一杯。やる事なす事、思うようになりませんが、それが却って発見の連続で楽しいかな。

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