カテゴリー: Nature – 自然


アスパラ

ピーマン

大根

レタス

ポットの脇に野菜の名前を書いた札を置いてましたが、強風で飛ばされたどれが何だかわからなくなってきました。

パーマカルチャーの本に書かれていたコンパニオンプランツの組み合わせを考慮して、虫に食われないように植えることにしていますが、地面に植え替えるときに間違えそうです。

イセヒカリも3日目に発芽が見られました。
大豆、エゴマ、メロン、オクラ、ネギはまだ発芽を確認してません。

去年は日当りが悪くて(だと思う)失敗してしまったイセヒカリの栽培。今年もやります。

こうやって水につけて発芽をさせてから、バケツなどで作った水田に移植する、あるいは畑の土に植えます。
この米は水稲も陸稲もいけるので、やれる方法でやればいいです。

稲は「命の根」。
米は連作ができて、土と水と太陽だけで育ってくれて、栄養も豊富に含まれていて、長期保存ができて、美味しい。
最強の食べ物じゃないかって思います。

籾米が余っているので、増やしてくれる人がいたら差し上げます。
ベレンダや狭い庭でも楽しめますよ。

大地の息吹は北海道産の無農薬無施肥の大豆。
これは去年、僕の家の庭と両親の家の庭でたくさん育ちました。

写真に写っているのは、去年採った種とその親に当たる種。ツルツルしてる方が去年採った種ですが、写真だとわかりにくいかな。

育てやすいので僕のような家庭菜園初心者にはオススメです。
まだ種が余っているので、増やしてくれる人がいましたら差し上げます。

下の写真はサヤエンドウ。もうすぐ食べられます。
たくさん育ててないのでみそ汁の具にして一回で終わりかな。

ニンジン、小松菜、キャベツ、ピーマン、メロン、アスパラガス、ミニトマト、ナスなど発芽して植える場所に困っているものがいくつか余ってます。すでに発芽しているので、プランターや鉢に植え替えて水やりするだけですから、もし育ててくれる人がいたら差し上げます。

こちらに写真があります。http://wp.me/pKQj5-IS

昨年から始めた家庭菜園。
最初は両親も「なんで今頃お前がそんなことを始めたんだ?」って不思議がっていましたが、会社に行っている間に倒れかかった作物を支柱を立てて直してくれたり、種や苗をあげたりもらったりして一緒に育てたり、栽培スペースを譲ってくれたりするようになって、失敗したけれど、稲を干していると黄金色の稲を見て「なんだかこうやって家に稲が干してあると豊かな気持ちになるねー」 なんて話をしたりで、なかなか楽しいもんです。

原発事故の前から準備はしていましたが、本格的にやり始めたのは事故の後。
除染の方法は、浄水の方法は、作物を育てるのに良い条件は何か、なんていうことを調べてやってみる。
自宅の井戸の水を自分で検査してみる。
腐葉土を作ってみる。
1つ1つは大したことではないけれど、やってみると全部繋がってるって気がついたり。
ちょっとした理科の実験をしているような感覚を楽しみながら、生きるということを考えるきっかけができたように思います。

世の中にはなんとか主義っていうのが好きな人が多いですね。
僕も文脈上で他の言葉が見つからなくて使ってしまいますが、本当はあまり好きじゃない。

経済を統制するという考え方が共産主義陣営でもてはやされて、それとは反対の自由主義(?)陣営は経済を放任する=市場に任せるという考え方を採用した。現実の経済は統制と放任の間を行ったり来たりして調整が行われていた。
冷戦構造が変化して共産主義陣営の脅威が少なくなってくると、 それに伴って経済を統制するという考え方がなりを潜め、放任する側が暴走した。その結果が新自由主義となった。そんな解説がされていることがあります。

財貨やサービスの価格が自由な市場において需要と供給のバランスによって決まるというのは嘘で、政治的な意図や宣伝によって価格は変わることがある。投機が行われることで価格は変化する。市場経済という言われるものは、この自由市場が前提の話なので、前提が壊れたら成り立たない。

GDPを経済の指標とする考え方がある。
秤がないと測れないのだから、何かの秤を求めるのは仕方ないのかな。経済を測る技術の一つとしてGDPが使われるのはそんな理由かもしれません。

GDPというのは市場における財貨やサービスの付加価値の総和ですから、これも市場を前提とする考え方です。
例えば家を火事で失う、家族が交通事故で命を落とすということがあって、火災保険で補償されたり、自動車保険から保険金が降りるなんていうことがあると、財貨の交換が発生しますから、GDPに貢献してしまうのだけれど、いろいろな思いが詰まった家を失う、大切な家族を失うという損失はGDPに反映されない。GDPという秤では測れないものがたくさんあります。

新自由主義を批判しながら、市場経済というものが正しいと信じて、GDPによって経済を測る人ってけっこういますけれど、新自由主義もGDPを語る人も、どちらも市場原理主義というか市場万能主義というか、市場ありきの議論でしょ?

しかも金という信用で成り立つ価値に置き換えて測るわけだから、 その信用が特定の集団によって政治的に操作され得ることを考えると、当てにならないことは自明です。

どこかで別の秤を用意しないと、私たちはとんでもないところに行ってしまうのではないかと心配になります。
個人的には自給率や再生率なんかにもっと重きを置いた方が良いと思っています。
自給すると財貨やサービスの交換が減りますから、GDPから見たらマイナスに見えるでしょう。でも、依存しない経済なわけだから安心感はある。
再生を重視する、例えば製造者が再生まで責任を持つということになると、生産コストがあがりますから、嫌がられるでしょうけれど、捨てるものはもったいなから買わない、もったいなから作らないという考え方はそんなに悪いものではないし、むしろ再生経済を構築し得る技術革新が伴えば、経済発展の指標になり得ると思います。

なるべく自分のことは自分でやろうとか、もったいないから買わない・作らないなんていうのは、当たり前のことでわざわざなんとか主義って言わなくてもいいでしょう。こんな考え方だからなんとか主義を声高に叫ぶのは違和感があるわけです。

このなんとか主義ですが、他にもいろいろあります。

例えば菜食主義。
伝統的にその地域では動物の肉を食べないなどということもあるでしょうけれど、ほとんど場合はただの頭でっかち(理性万能主義というやつ)ではないかと思います。

自然の循環の中では、微生物を食べた生き物が、より大きな生き物に食べられて、排泄物が微生物に分解されて植物が育って、そういった全体の生命の営みの上で、命をいただいて人間が生きてるわけです。

動物も植物も一緒です。便宜的に動物と植物を分けているだけで、科学というものが事物を細分化しているだけで、本来は一体なわけです。そして人間もその一部。

口蹄疫みたいな病気にかかった動物を大量処分(大量虐殺)することがあります。一方で、側溝に落ちて出られなくなった猫を救出して大喝采みたいなこともあります。
こういうことが同時に起きている。場合によっては同一人物が、 口蹄疫にかかった牛は食べられないからって殺せと要求しながら、子猫の救出劇に手を叩いて喜ぶ。自分中心、人間中心の考え方ではないかって思います。

人間に危害を及ぼすかもしれない動物を殺すこともある。それを批判する人が同時に虐殺した牛や豚の肉を食べるわけです。熊を殺すのは悪で牛を殺すのは善だとするわけ。善悪の判断が違うような気がしますが。

動物の命を奪って食べるのは悪であるとして、菜食主義を訴える人がいます。
ところが野菜や穀物だけだと体調が優れないから、魚介類はちょっとぐらいは食べるという。菜食だけが良いという主張を否定せざるを得ない、菜食主義じゃダメなんだという答えを自ら出しているにも関わらず、菜食主義だと言い張る。自分が良いと思っていることと、実際にそれが良くないという現実との乖離現象です。
自分が善だと思っていることは実は思い込みだった。思い込みを信奉するのが理性万能主義と言われるものの主要な要素です。
こういう場合、体調が悪くなるのは菜食にしたことではないのだと思います。そうではなくて、菜食が善だと思い込んでいるけれど、実はそうではないという現実。認識の歪みが原因なのではないかと思います。「病は気から」というのはこういうところから来ている言葉です。
菜食が善、動物をあやめることは悪、動物を食べるのに罪悪感を感じる。全部、そう思い込んでるだけであって、その思い込みが認識になって、それを現実だと勘違いする。その結果、それは違うよという信号として体調が悪くなるという現象になる。
自分が自然全体の一部であって、自然とは切っても切れない存在であるという実感が希薄なのではないのかな。
人間を生かしてくれているのは自然です。原発でも電気でもない。
こういう当たり前のことを感じ取れないということが病んでいるということではないかと思います。
理性に寄りかかることで病むんですよ。

食に関しては、身近なものを食べる、季節のものを食べる、なんていう当たり前のことを軸にして、バランスが取れていれば良いと思いますよ。なんとか主義で飯食っても美味くないでしょ。

昨年の秋に蒔いたソラマメがとうとう実をつけてきました。もう少しで収穫。楽しみです。

4月に入って蒔いた種からも続々芽が出て葉をつけてきました。

小松菜

カボチャ

ミニトマト

メロン

アスパラガス

ナス

ニンジン

この後も4〜5種類の野菜の種を蒔く予定です。

賑やかになってきました。

毎朝毎夕庭に足を運ぶのが楽しみです。

 

食育

子供の頃、蟻を踏みつぶしたりカエルに爆竹をくわえさせたりして遊んだことがある人はいると思う。
少し大きくなると大抵はすぐにそういうことはしなくなる。
大人になってもそんなことをするのは異常でしょ。
猫や犬に残酷な悪戯をしたという事件がときどきあるけれど、あれは異常者のすること。
普通は大人になったらやらない。

子供ってけっこう残酷なことをする。

こんなことを話すと残酷だと嫌がる人がいるけれど、よ〜く考えるとけっこう人って残酷なことをしてる。
牛や豚を屠殺する光景を見た事がある人は、あれがすごく残酷だと思うでしょ。

残酷だけれど人間が生きる為に仕方ないって目を瞑ってるんじゃないかと思う。

昔、日本では牛の肉なんか食べることは滅多になかった。
肉屋さんは穢れた職業で、肉を処理する人たちは差別と言っていいのかわからないけれど、普通の人とは違う身分として扱われていた、なんていう話を訊いたことがある。

これって凄くずるいんじゃないかって思う。

残酷なことを他人にやらせて、自分はその残酷さを感じないで済まそうとする。
罪の意識を感じないように誰かに押し付けてるみたい。
自分の穢れを誰かに押し付けてるみたい。
ずるいよね。

いっそのこと子供のうちに実際に屠殺を経験させてみてはどうかと思う。
残酷な光景を見せて食べるのをやめさせるのが目的ではなくて、他の命を奪って人間が生きるという現実を教えるために。

日本の捕鯨に抗議するインチキな団体があるけれど、捕鯨をやる人たちは鯨供養をして、残さずに鯨という資源を利用してきた。「人間が生きる為に鯨の命をいただく。いただきますと言っていただく。」みたいなことを言って美化する人も、牛の肉を食べて供養したりはしない。

こういうのをご都合主義と言うんじゃなかろうか?

自分でさばけない生き物の命を奪って食べるのはやめようという教育をしてはどうだろうか?
原理主義的にこれは絶対ダメみたいなのは好きじゃなけれど、徐々にそういう方向にいったら良いと思う。

今日は朝早く起きてギターの下塗り。
土曜日にボディの表以外にサンディングシーラーを塗ったので、今日はボディの表にサンディングシーラーを塗って、全体を研いで下塗りを終わらせ、できれば中塗りに入るという予定でスタート。

サンディングシーラーをサンドペーパーで研いだボディー。今回は2号機に比べると失敗もなくすんなりと導管も埋まりボディの表面がツルツルになりました。

ボディの表は金色にします。
金色のラッカーの発色が良くなるように、まずは白いラッカーで下塗りをしたところ。

一度ラッカーを厚く吹き過ぎて垂らしてしまい、サンドペーパーで削り取ってから塗り直してます。塗装は難しい。

ヘッドは汚れないように、薄くクリアラッカーを吹いておきました。

白が乾いたので金色を吹きました。これが1回目。乾いたら塗装面を研いで塗り重ねます。

本物のGibson Les Paulはこんな色ではありませんが、ホームセンターで買えるラッカースプレーだと同じ色にはできません。本物っぽさに拘るならアウトです。いずれコンプレッサーを手に入れたら、本物っぽい色で塗りたいと思いますが、今回はこれで諦めます。

ギター制作記はこちら。
http://wp.me/PKQj5-H0

午前中、サンディングシーラーの乾燥中に春蒔きの種を蒔きました。

昨年始めた家庭菜園ですが、今年は多品種少量栽培をします。
今日蒔いたのはこんな種。

ピーマン、アスパラガス、キャベツ、長ナス、丸ナス、ミニトマト、人参2種類、小松菜、メロン、カボチャ。

これらの種は4〜5月に蒔くものですが、今年は少し涼しいようなので、ちょっとだけポットの周りを保温するつもりで、 木枠で作った床の中に腐葉土などと米糠を敷いて、種をポットに蒔いて、その周りを水を入れたペットボトルで囲いました。 今年は作る機会がを逃しましたが、来年は太陽熱温水器を作って温床を準備しようかな。
5〜6月に蒔く種があと4種類ほどありますが、今日蒔いた種が発芽して葉をつけたら植え替えますので、それから残りの種を蒔きます。

狭い菜園なので、今回蒔いた種が全部発芽しても植えきれませんので、植え替えのときに間引きをしてしまいます。
植え替えできなかったものは、どこか近所の空き地にでも植えてしまおうと思います。笑

発芽し始めると毎朝菜園を見て回るのが楽しみです。
うちは土に多少の腐葉土を混ぜますが、それ以外は井戸水だけ。
土と水と太陽があるだけで、どんどん成長する植物の生命力って凄いなって思います。

今の生活は、平日は朝から夜までサラリーマンとして働いて、帰宅後にギターを作って、毎日朝起きると菜園の野菜を見て、土日はほぼギター作りに没頭して過ごしています。これだけでほぼ精一杯。やる事なす事、思うようになりませんが、それが却って発見の連続で楽しいかな。

昨日の土曜日。

3号機のレスポールDCを塗装するために塗料を買いに2駅隣りにあるホームセンターへ。
荷物が少ないときは自転車が一番。
休日は片道20キロくらいな自転車の方が速かったりする。上り下りがないルートなら、うちの辺りだと確実に自転車の方が速い。昨日は久しぶりに自転車に乗ったので少し遠回りして上り下りが多いルートを選んでみました。少しキツかった。

帰りに近所の桜の名所を通って、少しだけ桜見物。

屋台がたくさん出ていて賑やかでした。
以前はよく花見に出かけましたが、最近は少し機会がなくなっています。なんだか生活が忙しいような気がします。

家に帰ってからは、しばらく庭の菜園を見て回って、水やりをしたり片付けをしたり。
庭のカリフラワーもだいぶ大きくなってきてもうすぐ収穫。5株ありますが、そのうちの3株はダメみたい。

インレイは一部を削り取って貝を埋め直しました。

右側の花びらの右下の部分。つぎはぎしたのがわかってしまいますが、貝の裏側の光ってない部分が見えるよりマシかな。まだまだこういう細工が下手です。丁寧さとか根気が足りません。次はもっとゆっくりやります。

この日はインレイを修正した後で、ボディの下地作りと下塗りをしました。
マホガニーの部分は砥の粉で目止めをして、全体に木部プライマー(塗装の染み込みを防ぐもの)を塗って、サンディングシーラー(塗装面を平滑する下塗り材)を塗りました。

バインディングの部分をマスキングして塗って、サンディングするときにマスキングが剥がれて、また次の塗りの時にマスキングして、みたいなことを繰り返す塗装工程。結構面倒くさいですが、だんだん綺麗になっていくギターを見ると嬉しくなるので報われる気がします。植物を育てるのも物を作るのも、命のつながりみたいなものを感じられて生きているという実感が湧きます。楽しい。

いろいろな方法を試していないので、これが正解っていうわけでもないんだろうけれど、とりあえずできたからこれでいいんだろうと思う。

昨夜はアワビの貝殻から切り出した板材でヘッドのインレイを作りました。

まだ茎の部分がちょっと太いなど調整が必要なところもありますが、だいたいこんな感じ。

0.2mm幅くらいの細い糸鋸の刃でチマチマと切るわけですが、糸鋸の刃が折れるんじゃないかと心配し、貝が折れるんじゃないかと心配しながらの作業で、成果物の割には重労働だったような気がします。貝が折れないように押さえた左の手や腕が痛くなりました。

結局茎の部分が切断中に折れてしまったので、真ん中あたりで接着してあります。ヘッドに埋め込んでサンディングすれば目立たなくなるでしょう。

こんな感じで埋め込もうと思います。

ちょっと地味というか寂しい感じがします。
もう一手間かけると良くなるかな。

書かないとわからないと思って書きますが、このインレイは椿の花です。
子供のころから家の庭に椿の木があったし、家から近い鎌倉にも椿の花が咲いているところがたくさんありますから、とても馴染みのある花です。

明治天皇の御製にも次のようなものがあります。

椿ちるもりのしたみち春雨にぬれつゝゆけば鶯のなく

明治天皇の御製の中には、桜を詠んだ歌は40首以上あるので、桜に比べると椿は地味な存在かもしれません。

椿の花は首が落ちるように散るので嫌われるとかなんとかってどこかで読みましたが、切腹する侍の首だと思えばかえって潔いと思えなくもない。凛とした佇まいも良いではないですか。
でも一斉に咲いてハラハラと散る桜の人気に敵いません。

関東でも桜が咲き始めました。
毎朝毎夕仕事の行き帰りに通る八重洲の桜並木は七分咲きくらいかな。今にも満開になりそうな勢いです。
道行く人々が足を止めて桜の木を見上げて携帯で写真を撮ったり笑顔を見せたり。そんな光景が見られるのが楽しいです。

育ちが悪くて心配だったカリフラワー。
同じ時期に育て始めた他の野菜は全部収穫が終わって、残るはこのカリフラワーだけ。

やっと食べる部分ができてきました。

あまりたくさん育ててないですが、他のはまだまだっていう感じ。
これを収穫する頃は春蒔きの種を蒔き始めるときかな。

3号機の進捗です。

少ない手持ちの道具でなんとかそれらしくボディーのアーチを彫って、だいたい満足がいく形に大ざっぱに彫れたのでサンドペーパーで調整しました。薄いトップ材に彫ったアーチなので横から光を当てるとかろうじて見えるくらい。

次に本格的なアーチを彫るときまでには、もう少し道具を揃えたいところ。
こういうたくさん削る作業をサンドペーパーを主にしてやるのは大変過ぎます。
丸ノミや反カンナ、外丸カンナ などの細工用のカンナがあればいいかな。

黙々と単調な作業をするのも嫌いではありません。
音楽を聴きながらだったり、外から聴こえる鳥の鳴き声に時々耳を傾けたり、どうでもいいことを空想してみたりしながら。

 

原発の事故からもうすぐ1年。
先行きが不安な人がまだまだたくさんいる。
たぶんこの不安は当分なくならない。

中には日本で作られた食材は放射性物質で汚染されているからと外国産しか食べない、なんていう徹底している人もいるとか。
小さい子供を持っている人はすごく不安なんだと思うので気持ちを斟酌できないわけじゃない。

乳酸菌がいいと言われると乳酸菌、EM菌がいいと言われるとEM菌、といった対処をする人がいますけれど、たぶんそういう考え方ではこの危機は乗り切れません。乗り切れないからずっと不安なまま。
もう少し大きな視点でこの問題を見ようという提案をしても、なかなか訴求力もないしわかってもらえないのが少しもどかしいです。

自然は循環している。循環は宇宙の真理。
太陽の光と水と土で植物が育つ。育った植物を食べる。排泄する。微生物が分解する。また植物が育つ。そういう循環の過程で、土が姿を変えたものを食べて人は生きる。人も土が姿を変えたものと言えるかもしれない。
外国などの遠いところで採れた作物を食べるという発想は、もの凄く長〜〜〜〜〜〜〜〜い目で見れば循環なんだろうけれど、人の人生くらいの期間で見ると循環から遠い発想のように思う。

乳酸菌がいいEM菌がいいという発想も、まるで西洋医学の対症療法みたい。
そういうところに視点が固定されてしまう、木を見て森を見ずみたいな発想は、見ていてちょっと違うんじゃないかって思う。
外から摂ったものが体の中で都合良く機能することはないですよ。
体の能力が追いつかない。余分なものは排除される。体はそうできている。
何かやらないと不安だから、一縷の望みを託して、例えそれが気休めであろうとも、やらないと収まらない。そんな心境なのかもしれない。
でも、これでは不安の元をなくすことにはならない。

循環や調和というものは真理です。
真理から離れた行為が良いとはとても思えない。

都合のいいものも悪いものも、同時に依存して存在しているのがこの世界の実相です。
この実相を歪める発想、都合の悪いものだけを切り取って排除する、は最終的には機能しないんじゃないかって本能的に感じる。
この実相を歪める発想は近代合理主義や人間中心主義の産物なんじゃないかって思う。 原発問題の最も早い解決法は、みずから食料を自給することです。そう確信する。

何度もここで書いているけれど、遠くで作った作物を、大量のエネルギーを使って運び、大量のエネルギーを使って加工し、至る所に利権が発生してる。その連鎖を切るのは自給しか手段はない。
そういう連鎖の典型が原発じゃないですか。エネルギーの他者依存と利権が原因でしょ。脱原発と言いながら原発を誘い込むような発想で生きていて、脱原発ができるとは思えない。
便利な電気を使う、その電気はどこかに押し付ける。そういう都合のいいところを取る発想。問題が起きると都合の悪いところだけを排除しようと対症療法をする。考え方の枠組みが変わっていません。

みんな国が食料自給率を高めようとしていないことぐらいわかってる筈。
仮に国がそういう政策を持っているとしても、近くで作り、近くで消費し、近くで再生するというサイクルを作らないのは本来の自給という考え方ではないから、結局のところ自分で作って自分で食べろという話に落ち着くはず。

悪い話ばかりではない。
脱原発の活動をしていく中で、例えばそうそう簡単に除染ができないとか、食品の汚染から逃れるのは容易ではないことがわかって、対症療法的な対応では埒があかないことを悟る人も出てきている。たぶんそういう人には、循環の概念はわかってもらえると思う。

最近、周囲の人で自家製味噌にチャレンジする若い女性や、本気で家庭菜園に取り組む人が増えてきている。こういう人は気づいた人なんだと思う。味噌を作るのも作物を育てるのも、学歴なんか不要。大金が必要なわけじゃない。誰でもやればできること。
誰でもやればできる「本当のこと」なんだと思う。
そういう「本当のこと」を進んでやる人が増えているのはいい流れだと思う。

今や作物の種も外資が参入して支配されようとしている。
種を守るのも「本当のこと」だと思う。
自分で栽培して、自分で種を取って保存して、というのが「本当のこと」。
命の源泉を誰にも支配させないぞという決意と行動は「本当のこと」です。

そんな「本当のこと」をやり始めた友人たちを見て、やる気を出さないわけにはいかない。
去年は稲作に失敗して種籾を取れなかったけれど、大豆は種を残すことができた。発芽するかどうか心配だけれど、なんとか栽培〜収穫〜種を取るというサイクルを作りたい。
春蒔きの種も、外資が入っていないところから仕入れました。
種が取れるところまでいけたらいいな。

 

平日の夜ではできない大きな音が出る電動工具を使った作業を土曜日にやりました。
遊びに行きたくなるようないい天気でしたが、早くギター作りに熟練したいので遊びは後回し。こっちの方が今は楽しい。

土曜日はボディーやネックを掘る作業を手早く終わらせて、日曜日からは静かに部屋の中で手間のかかる作業。

ネックとボディーの造形がだいたいできてなんとかギターの形が見えるところまできました。
このくらいの時期が一番楽しいかな。出口が見えてくる感じ。


まだまだ失敗の連続で思っていることとやれていることの格差が激しい。
まだまだ技術も心も本物ではない証拠。
いつかは本物になると思ってやっているけれど道のりは長そうだ。
人によって多少の器用不器用の差はあるかもしれないけれど、こういう物作りって小手先だけでどうにかなるものでもなくて、むしろ、どういう心を持つかの方が大事だって思った。焦ったり、無理したり、甘く見ていたりすると必ずといっていいほどしっぺ返しを喰らう。

こういうことを始めた僕にとって、ギターは買うものではなく作るものなってきた。
これも自給の一形態。
材料や道具を買うところまでは、多くの人の手を通り所々に利権があるかもしれないけれど、製造、流通、消費は一体です。

ギターが上手く作れるようになったら、そこから「本当のこと」をやれる自分を見つけることができるかもしれない。
そんな期待を持って、毎日わくわくする生活。

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