カテゴリー: Opinion – 意見


國體が断絶していないから憲法も連続しているなんていう、わかったようなわからないことを言う人がいますが、このような人がテレビに出たり本を出版したりして毒をバラまいているのだから保守論壇は死んでますな。とっくの昔に死んでますけどね。反左翼を煽れば金になるというだけの人ばっかりだから。

國體は連続しています。
かろうじて。

皇室は存亡の危機にありますが、かろうじて天皇陛下がおられ元首として認識されている。
日本国憲法は天皇陛下を元首として明記していませんが、実質として天皇陛下は元首として認識されている。だからいいんだっていう話じゃないけどね。
皇室が存亡の危機にあるのは、皇室の家法たる皇室典範が本来のものから日本国憲法の下位法に貶められているから。そういう見方ができます。なぜなら皇室の不文法たる祖法を近代国家になる過程で明徴にしたのが皇室典範でしたから、祖法を曲げた現在の皇室典範は、必然的に法的に皇室の在り方の変化を求める方向に行きます。現に、女性宮家を作ろうだの、女性宮家に反対だのと、やる必要のない論争が起きてるじゃないですか。皇室の在り方を論じあってるわけですよ。女性宮家に反対だ伝統を重んじろと言いながら、皇室の在り方を論じるという舞台に登ってるわけ。謹んで本来の皇室典範(祖法にのっとったやり方)をお戻ししますというのが筋でしょ。

現在の皇室典範は明確に國體(の一部である皇室)の連続性を保証しない。
これに対して國體(の一部である皇室)が現在も存在しているんだからいいんだっていうのはかなり乱暴な考え方です。

かろうじて國體が維持されていると書いたのは、原発に関する論争を見て思ったことがあるからです。

脱原発というのは方向性を表す言葉です。
脱原発と言ったからっていきなり全部なくすという極端なことを考えるのはおかしいし、そういう人は少ないです。ゆくゆくは原発ゼロに向けて取り組もうと言ってるだけ。原発がゼロになったらと、今すぐにでも原発がなくなったらという前提でヒステリックに騒ぐ人ってなんだろう?被害妄想ですか?

今日も玄海だったかな、原発がなくなったら財政が厳しくなるから国に対応を求めたいなんていうニュース記事が目に入りましたが、こういいう交付金や補助金に依存した体制を作ってしまうのは問題です。原発を受け入れた自治体にはこの構図が必ずあるでしょう。腐った構図ですけれど、原発に限らずあちらこちらにありますね。脱原発という方向を目指す人は、この構造そのもをどう変えるか考えるといいと思います。(そんな投稿も過去にしました)

ここまで、余談でした。

未だに原発に関して脱原発がいいとか推進した方がいいとか議論していますがなかなか両者譲りません。
共有している価値観が違うから。

1.自分の家で出したゴミを他人の家の前に捨てる。これはノーです。法律で罰せられるという以前に普通やらない。やらないようにしようと考えることです。
2.捨てる場所がないのがわかっててゴミを出す。これもノーです。
3.面倒なことや汚いことは他人に押し付けて、自分は快適に暮らす。これもノーです。
4.責任が取れないことをやっておいて、いざ問題が起きたら逃げる。これもノーです。
こういう道徳観のようなもの、言われなくてもやらないという気持ち。不文の法ですよ。
これがどうも怪しい人がけっこういるのが不思議でならないです。
1〜4が全部YESの人なんている?剥き出しの欲望だけで生きているような人っている?
普通、恥ずかしいとかみっともないとか思いますよ。

以前、このブログで「もったいない」という言葉の意味みたいなことを書いたことがあるけれど、「もったいない」も不文の規範です。

こういう不文の規範は國體の一部ですから、その部分が怪しいというのを見ると國體が維持されているのかを多いに疑問視せざるを得ないです。
恥ずかしいとかみっともないという心の働き(抑制力、規範性)も國體の一部です。日本が日本であるための、日本人が日本人であるための規範の一つです。
あえて「普通、恥ずかしいとかみっともないとか思いますよ」と「普通」と書いてますけど、「価値観を共有している」を普通という言葉で表現してます。こういう価値観を共有できるかどうかが日本人か日本国籍人の分かれ目だと思う。
國體が連続していて、その連続した國體の下でみんなが追認したから、無効な日本国憲法だって憲法として連続性がある?
全部疑わしいよ。
稲作文化。これも國體の一部です。最近、米を食べる人が減ってきています。
日本語。これも國體の一部ですが、随分変質していますし、本来の正漢字仮名使いが読み書きできる人は少ないです。(僕は読める程度)
家族。これも國體の一部です。おじいちゃんおばあちゃんが同居している家ってどれくらいあるんでしょうか?
國體の連続性って疑わしいですよ。
ここが疑わしいなら、「連続した國體の下のみんなの追認」 も当然疑わしいし、「だから」「憲法に連続性がある」に至っては虚妄でしょうね。
こんなことを書いてる僕自身も疑わしいわけですが。
やっと4号機のボディトップのアーチの形状が決まってきました。
もう少しかな。ノミを使っていた右手が腱鞘炎になってしまったので、最後の仕上げは左手で。

この写真だとよくわかりませんが、本物は製作中のものより、もう少し表面がなだらかなアーチになっています。
例えばGibsonのフルアコのようなアーチトップ ギターの場合は、いくつかのアーチの形状のテンプレートみたいなものをボディに当ててアーチの掘り具合を確認するようですが、テンプレート作る為のデータ(図面など)が手に入らなかったので、本物をお手本にしてデッサンするような感覚で作業をしてます。

人間の思い込みというのはいい加減なもので、お手本のアーチの形を目に焼き付けるようにして彫ってみても、なかなかお手本と同じにはならない。頭の中で勝手にアーチの形を作ってる。絵を描く人ならわかると思う、この感じ。
時には自分の思い込み(認識)を否定することも必要です。

自分の思い込みを否定できないと、その思い込みで見たものが現実で、その現実を見て判断して考えるわけだから、思い込みから抜け出せないのですよ。
「國體が連続しているからいいんだ、無効な憲法でも連続性があるんだ」みたいなのも、そういう仕組みの中から抜け出ていないことが原因の現象ですかな。

どうでもいい話かもしれませんが、わかりやすいタイトルを付けてみました。
総理大臣になる前は靖国参拝すると言っておきながら靖国参拝できなかった男。けっこう期待してた人が多かったんじゃないかな。
麻生さんも「オレは本当は郵政民営化に反対だったんだ」って言ったとか言わないとか。それを引っ込めてしまった。この方も靖国参拝ができなかった。

「できなかった」んですよ。自分の信条や意思で靖国に行けなかった。

相変わらず反支那反韓国の発言をしてれば愛国者風が喜ぶと思ってる政治家が多い。飛びつく愛国者風の人が変わらないとダメでしょうね。

自主独立。
ときどきそんなことを言う政治家がいますけど、この言葉は戦後すぐに日本共産党が使った言葉です。
僕は共産主義というものが失敗したのを知ってるし、そんなものが機能するとは思っていないし、尊皇の志がないこともあって、日本共産党を決して応援することはないけれども、彼らは地道に政治工作をしているし、農業を守れ、雇用を守れ、自然を守れという発言を一環してしてる。政治的な腹黒い部分があることはあるかもしれないけれど、その共産党の支持団体や共産党にシンパシーを感じる人たちの中には具体的にそういう活動をしている人たちも少なくない。

農業、雇用、自然を守りたいって、みんなが考えてることでしょ?どれも生きるためには欠かせないものだから大事にしたいと思うのは当然。

それに対してふらふら〜っと愛国風味の言動をする政治家に釣られる愛国者風の人たちはどうだろう。
具体的な活動はほとんどしないで政治的な発言ばかりが目立つ。環境保護を訴えると、それが本来は大事なことはわかっているのに、それが左翼的団体が隠れ蓑にしているとかそういう理由で反対するわけ。イデオロギーを離れて農業、雇用、自然を守るという具体的な行動をすればいいだけですよ。環境保護自体に罪はない。

尊皇で自主独立。そういう方向を目指したいです。そう思いませんか?

つばらけき のりのことはり かずしれず あだをおひうつ いさをといさを (委曲けき 國體の條理  数知れず 仇を追ひ棄つ 勇と功)

僕の名前に使われている文字が全部入っている歌です。おもしろいです。

「つばら」(委曲)は、くわしい、つまびらか、十分なという意味の言葉です。
万葉集の中にもこの言葉を使った歌があります。

奥山の八つ峰(を)の椿委曲に今日は暮らさねますらをの伴
戦前戦中戦後と亭主を亡くして女手一つで貧乏に耐えながら8人の子供を育てた祖母。
僕が小さいころ、その祖母が、 貧乏よりも辛かったのは戦争に負けて占領軍に好き勝手にされたことだと話してくれた。

今生きてるアメリカ人が憎いとかそういうことはまったくないのだけれど、至る所に占領政策の爪痕が残り、日本らしさをどんどん壊していく憲法、教育、民法などにその影が見えて居心地が悪い。そういう体制が僕にとっては「仇」なわけで、少しでも「追ひ廃ち」たい。そういう意味では上の歌は味わい深いものがあります。

昨年11月に参議院に大日本帝国憲法と正統皇室典範の復原に関する請願が出されました。今年に入って、尖閣諸島の買い取り発言の影に隠れてしまいましたが、石原東京都知事から「占領が終わったのに、戦時に作られた憲法をそのまま使うことは歴史的にも例がない、こんなものは(法的に)無効だ」というような発言があって、東京都議会にも同様の請願が出されます。また尖閣諸島のすぐ近くの石垣市でも同様の請願が出されます。その後もどんどんこういう流れができます。必ず。

もういい加減に占領体制から離脱しようよという流れです。

困ったことに、これを邪魔しようとする日本国籍人が多いんですね。日本人じゃない日本国籍人。

これらの請願が目指す方向は、自民党的な自主憲法制定という動きと対立する。共産党的な護憲という立場とも対立する。日本国籍人たちの多くは、前述の愛国者風の人たちな場合が多くて、共産党系の人たちは黙って見ている状態。きっと笑ってるよ。日本の国柄を守るために大日本帝国憲法と正統皇室典範の復原しようという動きに文句をつけて妨害しているんだから。しめしめって。

「GHQに強要された憲法改正(押しつけ)は気に入らないけど、それでも毎日飯が食えてるからいいじゃん、アメリカが守ってくれるしー」みたいなノリ。気に入らないから文句は言うけど、この体制に頭のてっぺんまで漬かってる。
戦後60年以上、自主憲法制定も憲法改正もできてないんですよ。今でもたかが9条1つで意見が割れる。現実を見てないというのはまさにこれ。

日本帝国憲法と正統皇室典範の復原措置は法的に正しいです。最初から憲法として効力はなかった。それを政治的に自白するだけです。純粋に国内問題なので例えばアメリカなどからの横槍はありませんし、仮にあっても「内政に干渉するな」で片付く話。
靖国参拝ができなかったような人は勇気がなくて言えないのだろうけど、勇気のあるリーダーがいればできる。
石原都知事の尖閣諸島と憲法に関する発言や名古屋の河村たかしさんの南京についての発言など、もういい加減にしようよという流れが出てきました。

大日本帝国憲法を改正して良い憲法にしましょう。正統な皇室典範を復原して皇室の自治を回復しましょう。
大多数の日本人は困らないと思いますよ。

4号機はボディの成形中。

18mmのメイプルトップをノミで彫って大雑把に形を作り、その後はヤスリやサンドペーパーで形を整えていく。
休みの日は延々8時間とか、飲まず食わずで木を削る。腱鞘炎になりそうだったり掌や指の皮が剥けそうになったりしますが、痛いのも忘れて時間も忘れひたすら彫る。まあ、力仕事ですね。

こちらは色付けが終わった3号機。

この後、クリアラッカーを重ね塗りして乾燥したら磨いて塗装が終了。電気部品を配線し、金属部品を取り付けて完成です。
まだまだ塗装行程は先が長い。こちらはもうあまり力仕事はありません。

アマチュアのギター製作者でも、例えば非常に高度な治具を使ってボディの加工をする人もいます。そういった治具を作るのも楽しいし、自分が使い易い治具を考案するのもその製作者の技術の一部です。
僕などは、治具を作るための道具も十分ではないし、治具や道具を買うお金もないので、少ない道具で加工する言わば「力づく」なわけですが、住宅街の普通の部屋で音が出せないので、静かに作業しようと思うと、高価な高性能な電動工具があっても使えませんから、手道具で作業するのは宿命みたいなもの。そういう現実を受け入れた上で、次にやるときはもう少し楽に作業ができるように、もう少し速く作業ができるように、道具を揃える、道具を調整する、道具を作る、治具を作る、腕も磨くなんていうことを、少しづつやるわけです。この少しづつというのが楽しかったりするので、豊富な資金にモノを言わせて設備を揃えられなくても、毎日楽しく取り組めます。
無いものを無いと嘆いても前に進まないので、在るものを最大限使って前に進む。コンスタントにそうやっていれば、作業時間は何倍もかかるかもしれませんが、所要時間で比べたらそんなに差はないかもしれません。体力があれば集中力も持てますし忍耐力も持てます。淡々と諦めずにやるという姿勢は体力があれば維持できる。はず!笑

少なくとも、今後新しい道具を手に入れる場合も、楽に作ることが目的ではなく、より良いものを作るのが目的でないと意味がないかなと思いますし、新しい道具を手に入れても、その分、品質や工夫を凝らす部分が増えて、製作時間自体は変わらないかもしれません。

新しいものが何でも良いわけではない。
科学技術の進歩が人間を豊かにしてくれると信じて疑わない人もいますが、進歩と呼べないものもたくさんあります。

僕が勤め始めた頃、会社のコンピューターは大きな会社ならメインフレーム、小さな会社ならオフコンが主流でした。
パソコンはワープロと表計算をするための文房具の延長みたいな位置づけだった。
この頃のコンピューティングはメインフレームやオフコンが計算をして、パソコンはそのための入力装置/表示装置。集中型だったわけです。

ミニコンに始まってUNIXワークステーションが普及し出すと、パソコンを入力表示のための装置としてではなく、計算処理の一部を行うクライアントコンピュータとして扱う、クライアントサーバーというコンピューティングスタイルになった。

その後、Webコンピューティングというスタイルが広まって、またWebサーバーに処理のほとんどを行わせる集中型となり、最近はJavaScriptなどを使って再びパソコン側で計算処理の一部を行うクライアントサーバーというスタイルに以降している。

味付けを変えながら行ったり来たりしているように見えますね。
それぞれの時代で、新しい要素技術が現れると、それを利用して既存の技術を焼き直すみたいなことの繰り返しです。そうやって全体としては進歩したように見えます。本質はほとんど変わってませんが。

Macintoshとレーザープリンターが登場して、AdobeがPostScriptというページ記述言語を出して、一気に印刷業がデジタル化しました。PostScriptはLevel1からLevel2とバージョンアップし、Level3をPDFという名前に変えて出してきた。複雑化、整理、洗練などを繰り返してここまできています。これも技術の本質はそれほど変わってません。

どんな高度なコンピューター設備を持っていても、使い物にならないソフトウェアは作れてしまうし、どんなに良いDTP設備があっても、中身が駄文ばかりなら意味が無い。ソフトウェアを作る人、文章を書く人、絵を描く人が良くないとダメなのは自明ですし、魂の入らない仕事はなかなか良い仕事にはなりません。適当にやっつけて仕事をするよりも、全身全霊を傾けてやる仕事の方が面白いはず。

 

江戸時代の車夫は客を乗せた車をひいて江戸から日光までを15時間で走ったそうです。
150kmくらいあるでしょうか?
そんな長時間だと乗せられている客の方だって疲れますから、客も車夫も何度か休憩も取るでしょう。おそらく走っているときはマラソンのペース(時速20km)よりも少し遅いペースじゃないでしょうか?

自転車で300kmを走るのは、僕の場合だと15時間くらいです。15時間くらいで走れたときは、走っているときの速度は時速25km〜30kmくらい。江戸の車夫の場合は時速15kmくらいで走ってるんじゃないかなと思います。

そんな江戸時代の典型的な食事は、一日二食(江戸後期の江戸の人は三食になったようです)で、献立は米、みそ汁、野菜一品みたいなのが普通だったとか。肉や牛乳をたくさん食べると持久力が下がるのは体験的に知っていますが、江戸の食事は現代の食事に比べるととても質素です。
いろいろな指標があってその比較はしませんが、カロリーベースで40%とも言われる日本の食糧自給率ですが、廃棄する食糧もカロリーベースでは40%とか。日本で作った分を全部捨てている計算です。

ほとんどの食糧は流通過程で捨てられます。収穫〜出荷の段階で捨てられる物がたくさんある。形が悪いと売れないとか、大きさが不揃いだと売れないとか、そういう理由です。そして売れ残りが捨てられます。コンビニ弁当などが良い例ではないでしょうか。食べ物を工業生産品のように扱うことに疑問を感じます。

控えめに食べて捨てない。
それだけで自給率が上がりますね。

大食いの僕が書いてもあまり説得力がないかもしれませんが、今は一日一食生活で、おかずは割と質素です。晩ご飯でドカ食いをする上に、最近は運動不足でちょっと太ってきました。江戸の車夫のようにはいきません。
自転車で一日450kmくらいは走れましたが、600kmぐらい走れるようになったら、江戸の車夫並みと言われるでしょうか?

無理だな。

 

写真を見る限り前の日とあまり変わっていませんが・・・・

   

手で加工しているので完全に同じにはなりませんが、なんとか同じに見えるように加工しようと思っています。
こうやって写真を撮って並べてみると、まだまだ同じに見えるという状態ではありません。
日曜日に始めたボディ成形ですが、木曜日まで毎日少しづづ作業して、だんだん似てきましたが、頻繁に写真を見ながら確認しているとは言え、思い込みがあって削る場所を間違えたり、削る量を間違えたりして、なかなか同じにはならないです。形状を把握する能力が低いことを痛感します。

木がなくなるまで削ることはないので、必ずどこかで終わる作業ですが、その終わるまでの間にどれだけ丁寧にやれるかが大事です。
大事ですが、なかなかそれができているかというと疑問です。
丁寧にやろうという努力には終わりがありません。削って目で見て、ここをもう少しあそこをもう少し、指で撫でてみて、またここをもう少しあそこをもう少し。そんなことの繰り返しです。ここで終わりというポイントに辿り着くまでに妥協をすることもあります。妥協するときには言い訳を考えたりして。「ここをそんなに丁寧にやらなくても音には関係ない」とか「完成してしまえば見えないところだからいいや」とか。現実主義者を気取るわけですが、本心は「疲れたからもう止めたい」かもしれないし「上手くできないから諦めよう」かもしれません。

まだ下手糞なギター作りですから基準は決して高くありません。
基準が低い上に、先が見えなくて「こんなもんでいいかな」と諦めることも少なくありませんから、完成度が低くなるのは目に見えています。

今はギター作りの練習をしているので、誰かに弾いてもらうためのギターを作っているわけではありません。でも、自分への甘えを放置しておくと、小手先でそこそこ綺麗でいい音が出るギターを作れるようになって、誰かのためにギターを作るようになった時にも、きっと甘えが出るでしょう。そんな自分の姿が見えます。

丁寧な仕事とは丁寧にやろうという心がけを持って取り組む仕事ですから、綺麗な完成品が作れるというのとはちょっと違うと思います。コンピューター制御で加工されたギターがいくら綺麗な完成品でも、それを丁寧な仕事とは言わない。なので、丁寧にやろうという心がけを持って作ったものは、例えば完成したものが多少問題があっても、丁寧な仕事なのではないかと思います。丁寧にやろうという心と、熟練した技術が合わさって、丁寧で綺麗な完成品ができるということ。そういう結果が出せるようになるのが、モノを作るということの目標になるんだろうと思います。誰かのために作るのであれば、その人が楽や快を感じられるモノをということに加わるでしょう。

まあ、とりあえずしっかりと作るのが当面の目標かな。一気に思っているような結果は出せるとはとても思えない。
誰かのためにギターを作るときにも、しっかり丁寧に作ることができるようになりたいものです。

なかなか経済的な問題で道具を揃えられません。とりあえず作れますという程度の道具でなんとかやっていますが、刃物類はもっと切れるものが欲しいし、正確な加工をするための治具をたくさん作りたい。まだやったことがない工法がたくさんあるし、作ったことがないタイプのギターもたくさんあるので、一通り早く経験したい。この調子だと当分ギター作りの練習ばかりになりそうです。

以下、備忘録みたいなものです。作りたい治具と作りたいギター。

【作りたい治具】

  • ペグ穴などを垂直に開けるためのドリルガイド
  • ボディのテンプレート
  • ピックアップホールのテンプレート
  • ネックポケットのテンプレート
  • ルーター用のアタッチメント(バインディング溝を彫る、サンドホール周りのロゼッタ溝を彫るなどのため)

【作りたいギター】

  • Gibson ES-335みたいなの
  • Gibson L-5みたいなの
  • 2号機(PRS Custom 22型のエレアコ)のマトモなの
  • クラシックギター
  • Fender Mustang
  • 子供用、女性用の小さめのギター

静かに何かを作るのはおもしろい。

仕事が終わって会社を出るのがだいたい18時半頃。1時間半弱の通勤なので家に帰り着くのが20時前。短時間で夕食を済ませて、菜園に水やりをしたり生育状況を見て、それから作業用の服に着替えて自分の部屋で23時〜24時まではギター製作の時間。だいたい月曜日から金曜日までは毎晩4時間ほどの楽しい時間を過ごしてから、ブログを更新して寝ます。

オートバイや自転車で出かけたり、キャンプをやったり、海や山へ行ったり。そういうことも好きだけれど、こうやって家の中でゴソゴソと何かをするのも好きです。仕事も好きだし通勤時間も本を読めたりいろいろな人を見たりできて好きだし、好きなことに囲まれて生きているのを幸せだと思います。
振り返ってみると、子供の頃は自転車で冒険に出かけたり、川や田んぼで遊んだりが好きで、家の中で積み木で遊ぶ、絵本を読む、絵を描くのも好きだったので、まあ、子供の頃からあまり変わってないんだなとつくづく感じます。

昨夜は手作りギター4号機のボディの成形をしていました。左の写真が製作中のボディで右の写真がお手本。

このPaul Reed Smith Custom 22というギターはボディトップのアーチ形状が独特です。
角の部分のエグレがデザイン上も演奏性上も効果的で、このアングルから見た形がとてもカッコいいと思っています。
平らなトップ材をノミでチマチマと削って大雑把にそれ風に加工ができたので、次はサンドペーパーやヤスリを使ってもっとそれ風に成形していきます。
ボディ材の引き割り、平面だし、ボディのカット、彫り込みと手間のかかる作業の連続です。

右の写真の本物はトレモロアーム付きの低いブリッジがついていますが、僕はトレモロアームを使わない(上手く使えない)ので、Gibson Les PaulのようなTune O Maticブリッジを着けます。そうするとブリッジが高くなって、ネックの差し込み角が本物より少しキツくなります。計算上は差し込み角を4度にすればちょうどいい高さに弦が張られる筈ですが、加工が下手なのでどうなるかわかりません。2号機と3号機はぴったり3度にネックを接合できましたが、今回もうまく行くとは限りません。早くこういう加工の精度を上げたいものです。

PRSは指板の鳥の形のインレイも特徴的ですが、これも今回はなるべく同じような物を埋め込もうと思います。材料はアワビ。原貝を入手したので、それを製材してからインレイを作ります。これもなかなか手間のかかる作業です。

手間はかかりますが、毎日少ししか作業できなくても2〜3ヶ月もあれば作れるギターです。
本物は結構高価なギターですが、高価なギターを買う金額があれば、道具を揃え材料を仕入れて作ることができます。
作り始めていきなり本物に負けないような音が出せるとは思えませんが、生産設備や道具がある程度あって生産技術が身に付けば、いずれ立派なギターが作れるようになると思いますから、作る楽しみを味わえて将来の楽しみもできて、買うよりも作る方が僕には魅力的です。

日本の経済が停滞していると言われて随分年月が経ちました。
その間、3回リストラされて、職が見つからない期間が延べ4年くらいありました。だいぶ貧しいということに慣れることができたので、今では良かったと思います。死にたくなるくらいの貧乏というのを一度くらいは経験してみてもいいかもしれません。
世の中では景気を良くするためにはお金が回れば良いと考える人がほとんどです。

こういう幻想に取り憑かれていませんか?
景気や生産や消費が伸び続ける(はず)という幻想。
あるいは景気や生産や消費が伸び続けることが「善」である「正しいこと」であるという幻想。

ギター製作などをやっていると、例えば道具はなるべく永く使おうと考えます。 永く使うということは、なかなか買わないということですから、生産と消費は伸びませんよね。お金も動かない。これを不景気だから悪いと言いますかね?
たかがギター製作ですが、やっていくうちに技術が身に付きます。技術も売り買いの商品だと考える向きもあるでしょうが、技術そのものは景気の良し悪しにはあまり影響は受けませんね。「技術を売る 」「技術が売り物」という言葉を使うことがありますが、技術というものは魂を込めて身に付けて駆使するものだと思えば、簡単に売ろうとは思わないでしょう。

日本は高齢化社会と言われて随分になりますが、社会が成熟して安定期に入れば、たくさん子供を産まなくなるのではないかと考えます。
一通り行き渡れば、それを大事に使う限り、そんなに頻繁に買い替えないモノがたくさんあります。
道理から考えると生産・消費が右肩上がりというはあり得ない。
もし生産・消費を上げ続けようと思ったら、一旦破壊するしかない。

お金の歴史や仕組みのことを考えると、金が回れば景気が上がるというのに乗っかっていると、結局、その仕組みを作った人たちのところにお金が集まるだけですね。
その集まったお金で、またお金を生もうと企むわけです。戦争を起こすとか、二酸化炭素地球温暖化説を唱えるとか、ワクチンを公費で助成するとか。そうじゃなくても、日々、もっと買えもっと使えってあらゆるメディアを使って煽る。たくさん買ってたくさん使うことで、お金の仕組みを作った人たちの支配を支えることになる。
自動車にしても家電にしても資本は、国内の需要が増えないことがわかると、海外に出て行って売ろうとする。
資本はそうやって簡単に国境を越えてどん欲に獲物を漁る。

日本は金で大量の石油を買い、外国の戦争の戦費を負担し、世界で一番多くのワクチンを消費している国です。

武士は金勘定を嫌っていました。今となってはお金のない生活はなかなか想像できませんが、お金に執着するのを嫌うという感覚は日本人の多くが共有していた感覚なんじゃないかと思います。今の日本の状況はそんな武士たちからはどう見えるんでしょうか?
地域通貨にすれば現在の通貨システムのルールを変えられると主張する人がいます。
日本を強靭化するためにしっかりインフラを整備しなくてはならないという人もいます。

どちらも手法としては良いかもしれませんが、肝心の思想はどこに求めるのかというのを共有していないとバラバラになりそうです。

僕は「もったいない」ということをしっかり意識するのが重要だと思います。

「もったいないから無駄にしない」「無駄になるものは買わない」「買わないから作らない」

上の幻想にハマっている人は戸惑うかもしれません。
でも心配しなくていいと思います。
生産手段を持てばいいんですよ。そこで投資が起きます。
生産と消費が一体化すれば、無駄になるものは作らないです。
お金の移動が減ってもモノや知恵が移動すれば生きていけるし幸せだと思います。

生きるために食べる。食べるために働く。これがちゃんと回れば十分でしょ。
ちょっと余るくらいに作って、ちょっとの余裕を楽しんで、ひたすら生きる。それで幸せだっていう人は多いと思います。

子供のうちなら躾や教育でなんとかなるかもしれませんが、大人になると知識がこびりついていてなかなか落ちません。
頭でっかち、理性に対する万能感みたいなものがなくならない。それが幻想を生みます。
幻想の上に生きて行くか、生きるということそのもを真剣に追求していくか。
曲がり角にきているように思います。

日本にとってお隣の支那が大国で、支那からの文化や文明を吸収して、和の心で物造りをしたり物を書いたりするのを和魂漢才と言っていましたが、西洋の文化や文明が押し寄せてきて、後に和魂洋才という言葉が使われるようになった。
どんな文明や文化でも、それが良いと思う、あるいはそれが好きならどんどん取り入れて行く柔軟性はあってもいいと思うけれど、そういうものが大量に押し寄せてきて圧倒されてしまうと、自分を見失うかもしれないという不安があるのかな。そういうときに和魂を確認しないと落ち着かないみたいな気分になるのかもしれない。

中学高校の頃は洋物の音楽ばっかり聴くようになっていた。何がきっかけだったかは忘れてしまったけれど、ギターを弾きたいと思うようになったのがその頃。Deep PurpleとかJeff Beckとかをコピーして弾き始めた。日本の音楽にも興味はあって、四人囃子とかいろいろと聴きかじったりはしていたかな。

子供の頃から言葉を扱うのが苦手。文字は間違えるし文章は下手だしで、国語のテストなんかを受けたらいい点は取れない。歌が下手だということもあって、ボーカルが入った曲が嫌で、バンドで演奏する曲もボーカル無しのものが増えていった。やまと言葉で書かれた文章を見て、なんとなくいいなぁとは思うけれど、ただでさえ言葉を扱うのが下手なのに、なおさらやまと言葉を使いこなせていないから、和魂はやまと言葉にあり!なんて言われたら失格かな。

和ってなんだろう。
よくわからない。

よくわからないけれど、昨年から始めた家庭菜園とギター作りは、和の風味を取り入れてみている。試行錯誤だ。
ギターという洋物を作るわけだから洋才であることは確かなんだけど、果たして和魂があるかどうかははなはだ疑問。疑問だけれど、可能な限り日本の道具を使うようにしている。何か掴めるのではないかという淡い期待を持って。

エレキギターを作るときは一定の深さに木を彫るという加工がいくつかある。
ピックアップを取り付ける穴、ボリュームやトーンなどの操作系部品を取り付ける穴、ネックを接合する溝など。
3号機のLes Paul Double Cutでノミで加工しようと思って途中でめげました。穴が深くなると手持ちのノミでは削れなくなるし、あまりに時間がかかるので諦めました。そういう部分は仕方なくトリマーを使うことにしている。いずれ道具を揃えて再挑戦するつもりだけれど。

トリマーは音がうるさいので土日の昼間しか使えません。
いつも金曜日までにテンプレートなどを準備をしておいて、土日に一気にトリマーを使う作業をやります。

先週末はトラスロッドの溝、ピックアップの穴、コントロール類の穴を彫りました。
これらの作業はテンプレートやガイドを使ってトリマーで彫りますが、最後の仕上げは手作業。

コントロール類の穴の蓋をハメる部分は、陽が落ちてしまったので手彫りに切り替える。
出来上がってしまえば見えない部分だけれど、手道具で加工する部分はとにかく丁寧にやろうと心がける。加工した結果は熟練度に左右されてしまうけれど、熟練していようがいまいが丁寧にやろうという気持ちが大事だって思う。(大雑把な性格なので、これがけっこう大変なんだけど)

そしてボディトップのアーチ。
3号機でも緩いアーチを作りましたが、今度のギターはかなりはっきりしたアーチがあって、デザイン上も重要な部分。
ギター作りの先輩たちは、いろいろな道具を使って削るのだろうけれど、この作業に使えるのは平ノミと丸ノミがそれぞれ1本づつ。4時間も集中してやって下の写真程度にしか彫れませんでした。

このギターはボディ材の引き割り、鉋がけ、そしてこのアーチ削りと手道具でやると大変な作業ばかり。
毎日道具を握る右手の握力がなくなるような状況で肉体的には辛い。
変人と言われるかもしれませんが、僕にとっては「辛いは楽しい」なので、これはこれでよし。 こんなことをできるのも頑丈に育ててもらったからこそ。ありがたいと思う。
困るのは握力がなくなるので、よく手に持っているものを落とすこと。ほぼ毎日iPhoneを落としてます。壊れなきゃいいなー。

PRS Custom 22タイプのギターを作る http://wp.me/PKQj5-IG

 

ギター作りにだって「道」みたいなものがあるかもしれないです。
情報に振り回されず、人と比べず、自分がやりたいと思うようにやってみて、その中から何かを掴むことができるかもしれない。淡い期待ですけどね。

原発に関して、危険か安全かみたいな、様々な思惑から語られる推進論も反対論はどっちもどっちな気がします。
現代農業6月号に載っていた主張「脱原発の大義」という記事がとても良かったので原文そのままを転載します。
この記事では地域社会や地方経済を破壊する原発という視点が語られています。

パチンコの電気が無駄だと言いながら、たいして暑くもないのに冷房の効いた部屋でツイッターなどで無駄口を叩く。自己規制し得ないことを他人に求める姿は見苦しい。何かに文句を言いたい。文句を言いたいから文句を言うネタを探してる。不幸ですね。嫌なことをすすんで探してるんだから、不幸としか言いようがない。たぶん原発とは関係無しに不幸なんでしょう。自分の内に問題がある。満たされないものがある。そして外に不満のタネを見つけてそれを攻撃して鬱憤ばらし。
よく観察してみるといいですよ。
仕事が順調じゃない、能力もないのに見栄を張っている、好きじゃないことをやらされている、夫婦仲が上手く行ってない、病気がちの家族がいる、彼氏彼女ができない、結婚できない、などなど不幸(だと思っている)のタネを持っている人が多いから。

今年の夏は電気がー、経済がー、産業がーって騒ぐ人々の愚痴をたくさん聞くことになるでしょうね。そのうち、食べられなくても電気、食べられなくても経済、食べられなくても産業。そういう変わった人も現れそうです。
世界で最も大きな問題は人口問題。これが根本問題。そこからくる水不足、食糧不足、資源不足。原発問題はそれらの問題から比べれば小さい。原発問題の先を考える時です。この「脱原発の大義」もそういう方向に発展しうる文章です。

本文中の以下の主張はとても良い指摘だと思います。

「外国や東京等の被災地外に本社機能をおく資本を誘致したとしても、あるいは原発に代わる大規模自然エネルギー生産拠点を誘致したとしても、それが直ちに被災地の持続的な復興・復旧に結びつくことにはならないことは、歴史が明らかにしている」

「被災者が主体として直接関わる地域内再投資力の再建」を「被災者の生活領域」すなわち「農山漁村では集落や昭和旧村の広がり、市街地では小学校区」を基本にしておこなうことが必要

自治と自律を地域でという発想ですね、これは。
観光客が落とす金を当てにしている観光地なんかも危ないね。
では転載した全文を。
URLはこちら。http://www.ruralnet.or.jp/syutyo/2012/201206.htm

脱原発の大義――地域破壊の歴史に終止符を

美しい農山漁村に原発は無粋だ

「計画的避難区域となった荒れた農地を見ると心が痛む。耕して種を播き、豊かな稲穂を稔らせた水田を見ると、なんと美しい光景かと感じる。…春の山菜と鏡のような水田、初夏に羽化してひらひらと舞い、秋には黄金色の稲穂に番いで帰る赤とんぼ。紅葉に果物…。この美しい農村の原風景は農民の営農の連続によってつくられてきた。

美しい風景と環境をつくってきたのはまぎれもない、林業家であり、農民であり、漁民である。この第一次産業を守り育てることが環境を守り、持続可能な社会をつくることではないだろうか」。

本誌とほぼ同時に発売される農文協ブックレットの新刊『脱原発の大義』に、執筆者の一人である福島県の農家・菅野正寿さんはこのように書いてくださった。「耕して種を播き」「営農の連続」によって受け継ぎつくられてきた美しい風景と環境、それが「持続可能な社会」の土台であり、私たちの普通の暮らしの基盤でもあることを気負わない言葉でのべていて、すがすがしい。被災した、苦難の只中からの言葉であることを思うと、なおさらだ。

漁家や林家も含めた生業なりわいの連続とその結晶としての美しい風景と環境、持続可能な社会の土台=「地域」。それらを根底から破壊し、あまつさえ事故の検証も終わらぬうちに再稼働に踏み切ろうとする政府・財界、電力資本。清々しさとは対極の、なんと醜悪な光景であろうか。

当会は、このような原発推進勢力の邪よこしまな精神と強権的行為を断罪し、「原発の本質は地域の破壊」(本誌昨年6月号「主張」)であることをより明らかにするため上記ブックレットを発行、広く国民全体に訴えることにした。その企画趣意書は次のようにのべている。

1 原発は地域社会、地方経済の破壊者であることを明らかにする。

そのすべてが貧しい海辺の寒村に建てられた原発は、その地域を電源三法交付金等「麻薬」に依存せざるを得ないアリ地獄の経済構造に変え、無機質で非自立的なむらまちに貶おとしめ、日本社会を宗主国(都市=政官財学原発複合体)と植民地(原発立地農漁村)に分けてしまった。その利益と繁栄は国家と都市、原発メーカー死の商人と電力資本がこれを享受し、そのいのちと暮らしの不安と危険、ふるさと喪失の無念は農山漁村がこれを請け負わされた。この不条理を満身の怒りを込めて明らかにする。

2 “移動できない民”に寄り添ってふるさと再建、日本社会全体の再構築を展望する。

移動できない民=大地から離れては仕事にならない農家、海を汚されては“陸おかに上がった漁師”になるしかない漁家の立場に立って原発の地域破壊を根底から告発する。

この期に及んで、日本がダメなら輸出で稼ぐとうそぶく政府、財界・原発企業=“移動できる資本”の反国民性、天をも恐れぬ反人類史的不道徳を糾弾し、農林漁家が安心して生きいき働ける環境を取り戻すこと=脱原発こそすべての国民の安全、安寧の途であることを明らかにする。

消費者の不安は、農林漁家の、現実の甚大なる被害の従属関数であり、後者が根底から解消されることこそ真の解決の途であることを明らかにする。そしてその道づくりは、農漁家そのものがそろそろと、しかし確かに、気丈に取り組み始めていることを明らかにする。

3 安全性論議を超えて地域力への普遍的認識を!

原発そのものの安全性論議に巻き込まれず、地域の力、日本の豊かなエネルギー資源の再発見、利活用で危機を突破する道筋を明らかにする(それを忘れ、安全か安全でないかの議論にのみ「熱中」するのは危険だ)。――

こうした企画の趣旨に上記菅野さんを始め多くの学者、研究者、農家、生協関係者の賛意を頂き、それぞれの立場からその趣旨を具体化し、「脱原発の大義」を豊かに展開していただいた。以下、ごく一部だがそのエッセンスを紹介しながら“脱原発と農山漁村の大義”を明らかにしたい。

事故の前から原発は地域を壊してきた

第一に、なぜ原発の本質は地域破壊なのか。それは原子力発電所というものが、(安全性の問題を抜きにしても)そもそも地域では裾野の広がりをもたない「産業」であり、従って地元の雇用も少なく、それどころか立地地域の農商工、土建業などをさびれさせていくマイナスの作用と構造をもった産業だからである。原発に不安を覚えながらもその再稼働に地域経済の望みを託す関係者も少なくない中、これは、しかと確認しておきたい論点だ。京都大学大学院教授の諸富徹氏は次のようにのべている(以下、引用はすべて上記ブックレットより。一部圧縮、省略等している)。

「原発は燃料棒を他からもってきて、原子炉で発電し、さらに送電線で電気を県外に供給するための施設です。つまり地域の産業構造との連関性を全くもたないところに特徴がある。原発を誘致しても、そこから産業が広がるという方向性が展望しようがない施設なのです」。

しかも原発は、「点検業務その他である程度の雇用は発生しますが、運転そのものは中央制御室で少人数でなされます。稼働を止めて定期点検をする際には多くの人手が必要となりますが、定期的な雇用を生むものではありません。したがって同規模の投資をしたときに発生する雇用効果としては小さい」のである。そこで地元を納得させるために電源三法交付金などのお金をドンドン注ぎ込むのだが、それによって潤うのは後述する立地自治体の財政問題同様一瞬で、失うもののほうが非常に大きいのである。

「それは、地域経済がこの交付金に依存をしていく構図がほとんど不可避的に創り出されてしまうということです。

まず、農業サイクルと原発の建設サイクルが全く違う。農閑期に原発建設に従事し、農繁期にはそこから農業に戻ることができればいいのでしょうが、そうはならない。ですから、いったん人手として建設現場にかり出されると、労働力が原発に奪われてしまい、まず兼業農家が淘汰されてしまう。

それから原発建設とそれに伴う事業についても、地元には非常に専門化された高度な技術要求を請け負えるノウハウがないので外部から都市の企業がやってきて仕事をとるのですが、彼らは原発の建設が終わった後も地域に残り、地元の細かな建設事業も奪っていくそうです。さらには人の問題があります。原発が雇用する労働者は多くはないのですが、しかし比較的高給で商店街や地元企業の優秀な人材を奪っていく。こうしたことが複合して、地域経済は自立とは全く逆の方向へ曲げられてしまうのです」。

こうして、本来あったはずの地域の内発的発展の芽が摘み取られ、地域の人的物的資源が原発に総動員されることにより、地域経済が土台から崩されていくのである。

さらに追い打ちをかけるのが立地自治体の財政問題だ。

原発にしがみつかざるを得なくさせる財政構造への変質

「(電源三法など)こういった交付金を一度受けてしまうと、財政構造が強烈な依存型へと変わってしまうのです。交付金自体が外部から箱物投資のためにくるものですから、まずは色々な公共設備をつくっていく。例えばコミュニティーセンターやコンサートホールですね。どれも非常に立派で美しい建物ですが、年間数千万円の維持費がかかりますから、とても事業収入だけではペイできず、残りは全て一般会計からの持ち出しになってしまう。さらに下水道や道路建設などの公共事業も一挙に進め、その維持管理コストも跳ね上がってしまう。こうして歳出構造が硬直化し、高止まりしてしまうのです。

一方、収入のほうは…原発の完成によってこれらの事前交付金は廃止あるいは大幅に縮小され、その代わりに現れるのが固定資産税です。しかし一般のビルと同様に、償却をしていくのに従って不動産価値は減少していきますから、固定資産税も目減りしていく。約10年で半分以下に減ってしまいます。

ですから、歳出構造を原発の建設期、あるいは建設直後に合わせて固定化してしまうと、歳入が全く足りなくなってしまう。そこで、さらなる原発増設によって減ってしまった交付金と固定資産税収入を再び回復させ、高水準の歳出を賄うという選択を取ってしまうことになる」。

かくして原発は、ある種、依存の再生産構造であり、麻薬の常習を強制させられるようなものなのである。諸富氏はこのようにのべ、自転車操業のように次々に新たな歳入源を求めては見返りに原発を受けいれざるを得なくなっていく構造、いったん受けいれてしまうと抜け出せない原発は、地域発展の手段としては邪道であり逆効果であることを明らかにした。

同時にしかし氏は、こうした構図が「あたかも原発立地地域が自発的に原発依存を選んだ」結果であるかのように描く一部の軽薄な論調を批判し、「原発を受けいれた地域が、受けいれざるを得ないような状況にするインセンティブが様々に働いていた」こと、そうした構造を「都市に住む私たちがその半面を担っている」にもかかわらず「都市の側は責任を問われず、しかも生活の近くに原発があるというリスクを回避できる構図になっている」ことを指摘することも忘れてはいない。こうしたことに無自覚な都市民が少なくないことに自戒と反省を訴え、その上で、地域の力に依拠した脱原発の具体的方途を種々検討、提言、原発の、“終りの始まりが始まっている”ことに確信をもとうと呼びかけている。

昭和恐慌期「東北振興事業」にみる国家と財界の地域破壊

昭和30年代以降、国策民営ですすめられてきた日本の原発政策は、以上のようにして地域を破壊し続けてきた。しかし、国家と財界によるこうした地域破壊は今に始まったことではなく、歴史的にくり返されてきた根深いものであることに注意が必要だ。同じく京都大学大学院教授の岡田知弘氏は、次のような歴史上の事実を明らかにした。

時代は昭和初期、恐慌によって疲弊していた東北地方が昭和六年と九年に冷害凶作、8年には昭和三陸大津波に襲われ、自然災害が重くのしかかった時期である。

「東北振興会の陳情運動もあり東北救済の世論が高まるなかで、…東北振興事業が国策として推進され」ることになった。しかしその真因は、「東北の農漁民の救済や東北と他地域との格差是正にあったわけではなく、むしろ日中戦争が開始されるなかでの国家総動員資源政策の一環として位置付けられたことにあった」。これは、「国家総動員機関である内閣資源局の局長と東北振興事務局長を兼ねた松井春生が、率直に語っているところである。彼によれば、『東北振興は、単に東北の為の振興のみでなく、日本帝国の為の振興であ』るとし、『東北振興の要諦は、まさに、斯の如き其の域内に包蔵する人的・物的資源の利用開発を企図し、以て国力の開展に貢献するに在らねばならぬのである』と言い切っていた」。

事実、中央大資本が「金属鉱山開発から農畜水産加工業にいたる多方面の事業に参入する」が、戦況が悪化するに従い、軍需生産が優先されることになり、「当初理念として掲げられた東北農民に安価な化学肥料を配布することにはならなかった」。さらに、「東北興業株式会社の出資先の多くが三井系の重化学工業資本」であり、また、「東北振興電力には三井、三菱財閥が出資するとともに、東京電燈(現・東京電力)から複数の課長職が派遣された」が、その結果は、地元には仕事もこなければ電気の恩恵に浴することもできない、惨憺たるものだった。

「近時、奥入瀬発電所工事ニ関シ、東北各地業者ハ大イニ憤慨致居ル実例ヲ仄聞シ、東北振興ノ見地ヨリ甚ダ遺憾ニ存候、切ニ望クハ両会社工事施工ニ当リ、是非共地元業者ヲシテ御下命ノ恩恵ニ浴セラルル様、御詮議賜ハランコトヲ重ネテ要望候也」(福島商工会議所)。

「東北振電ガ出来テ以来開発サレタ電力ノ大部分ハ福島県デアルガ、其ノ三分ノ二ハ、東京地方ニ送電サレテ東北自体ニ使ワレルモノハ僅カダ。将来半分ダ何割トハ言ワナイガイクラカ地方ニ残シテ貰イタイトイウ希望ガアル」(川越丈雄東北興業株式会社総裁)。

かくして東北救済を名目に進められた「振興」事業は、「雇用効果は少なく、むしろ大量の労働力や物的資源、電力エネルギーが東京に向って流出する構造が形成され」た。ちなみに、1936年から42年の間に、東北各県から78万人の人口が他県に移動、流出したと岡田氏はのべている。

こうして、戦時期に形成された東北と中央との関係は戦後から現代に至るまでほとんど相似形で再生産され、再び電力、エネルギー、食糧、水、人の東京への供給地としての性格を強めていく。その延長線上に、福島県浜通り地域への原子力発電所の集中立地が位置したのである。こうした構造はなにも東北に限ったことではない。全国至る所の地方と中央、農山漁村と大都市の関係に当てはまることは言うまでもない。

だから、復興を目的に、あるいは一般的に地域振興を考える際、「外国や東京等の被災地外に本社機能をおく資本を誘致したとしても、あるいは原発に代わる大規模自然エネルギー生産拠点を誘致したとしても、それが直ちに被災地の持続的な復興・復旧に結びつくことにはならないことは、歴史が明らかにしている点であ」り、「被災者が主体として直接関わる地域内再投資力の再建」を「被災者の生活領域」すなわち「農山漁村では集落や昭和旧村の広がり、市街地では小学校区」を基本にしておこなうことが必要だ。岡田氏はそうした方向でチャレンジし始めた実際の例を各地に訪ね、紹介しつつ、その基盤となるインフラストラクチャの再建をバックアップすることこそ、国や地方自治体の本来の役割であることを強調している。

耕すことで農は復興への可能性を拓いた

原発による地域破壊の歴史と現状をみてきたが、そんな中にも一条の光明が見えてきた。「耕すことで農は復興への可能性を拓いた」――そう報告してくださったのは茨城大学名誉教授の中島紀一氏である。氏は冒頭に紹介した農家・菅野さんとも親交のある研究者だが、不安を覚えながらも耕すことをやめなかった農家の営みが希望をつないだと、大要つぎのようにのべている。

「収穫物に放射能がどの程度移行しているかは本当に心配だったが、実際に測定してみると放射能はほとんど検出されないことが判ってきた。各地のデータを集めてみるとND(検出下限値以下)かそれに近い低濃度の数値が並んだ。…昨年水稲の作付けが行政的に抑制された南相馬市で、作付け禁止の行政指示に納得せず、有機稲作を実行した安川昭雄さんという八五歳の老農家の田んぼの放射能は7月段階で8777ベクレル/kgだったが、収穫した米の放射能は54ベクレル/kg、移行率を計算すると0.006であった。…3月の原発事故による田畑の深刻な放射能汚染という事実の中で、これは信じられないような嬉しい事実だった」。

そして中島氏は、耕すことによって放射性セシウムは、容易には動かない状態になり、作物にはわずかしか移行しない状態がほぼ普遍的につくられ、それには科学的根拠があることがわかってきたことを紹介したうえで、「福島の復興を考えたとき、この事実の意味はたいへん大きい」とし、次のようにむすんでいる。

「不安の中で、道も見えないままに、それでも農の営みとして土を耕したのは農民だった。その多くは(強制避難地域以外で)避難しなかったお年寄りたちだった。…だから穫れた野菜を孫たちに食べさせても大丈夫なのかどうかは、耕すことをやめなかったお年寄りたちにとって、何より切実な関心事だった。…だから、測定して、農産物への放射能の移行がわずかに止まっていたという事実を知って誰よりも喜んだのは耕し続けたお年寄りたちだったのだ。そして一年を経た今、他所に避難していた家族が少しずつ戻り始め、お年寄りたちが作った農産物で家族の食事が作られ、食卓に和が少しずつ取り戻されつつあるようなのだ。

彼ら彼女らの耕すという行為が、深刻な放射能汚染という被害にもかかわらず、農作物には放射性セシウムがわずかしか移行していないという今の状態を、つくり、拓いた。私たちは今、福島の農が拓いた現在として、こうしたことをしっかりと受け止めるべきではないだろうか」。

脱原発・地域の再生は、土と作物の力を信じて耕し続ける農家の営みから始まる。



日本国憲法を読んでいると嘘が書いてあるのがわかります。

いきなりこうです。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

国会は日本国憲法が生まれた後の組織ですから、「国会の代表者が憲法を確定」するのは嘘でしょ?
帝国議会と書いてあれば、まあわからないでもないけれど。

「ここに主権が国民に存することを宣言し」というのも嘘でしょ?
占領中なんだから主権はGHQにあるわけで、主権=最高の決定力が「存しない」ことは明らかです。

こういうことをどう読むか。

「憲法に嘘が書いてある」と読む人もいるかもしれないけれど、嘘は本物にならないわけですから「これは憲法ではない」と読むのが自然じゃないでしょうか?

親がいないのに子供が産まれたみたいなことを平気で言うのはやめてください。
処女が子供を産んだなんていうどっかの宗教と同程度。

こういう小学生や中学生でもわかるような矛盾を平気で流布してるのってなんなんでしょうか?

「う〜ん、確かに本来は憲法ではないんだろうけど、現実にそれが憲法として使われてるから〜」みたいな反論にもならない反論をする人がいますが、。「現実に」っていうのは「憲法として使われていると思っている」ということでしかない。つまり思い込み。「オレが憲法だと思うから憲法なんだー」っていうのは通じない。i憲法、my憲法などと呼んで一人で遊んでればいい。

憲法と書いてあるけど憲法ではない。

憲法ではないのに、その条項を使って憲法改正をする。
憲法改正だー!っていう言う人の考え方です。
これも宗教のようです。

憲法ではないのに、その条項を使って自主憲法を制定(全部改正)する。
自主憲法制定だー!っていう人の考え方です。
これも宗教のようです。

正気を取り戻しましょう。

6月13日に都議会に対して、日本国憲法および(現)皇室典範の無効確認を求める請願がなされます。
当日一般質問でこの件についての答弁が行われます。
時間のある方は都庁に押し掛けましょう!

【拡散希望】東京都議会への請願です〜署名のお願いと集会へのお誘い

http://wp.me/pKQj5-I9

世の中にはなんとか主義っていうのが好きな人が多いですね。
僕も文脈上で他の言葉が見つからなくて使ってしまいますが、本当はあまり好きじゃない。

経済を統制するという考え方が共産主義陣営でもてはやされて、それとは反対の自由主義(?)陣営は経済を放任する=市場に任せるという考え方を採用した。現実の経済は統制と放任の間を行ったり来たりして調整が行われていた。
冷戦構造が変化して共産主義陣営の脅威が少なくなってくると、 それに伴って経済を統制するという考え方がなりを潜め、放任する側が暴走した。その結果が新自由主義となった。そんな解説がされていることがあります。

財貨やサービスの価格が自由な市場において需要と供給のバランスによって決まるというのは嘘で、政治的な意図や宣伝によって価格は変わることがある。投機が行われることで価格は変化する。市場経済という言われるものは、この自由市場が前提の話なので、前提が壊れたら成り立たない。

GDPを経済の指標とする考え方がある。
秤がないと測れないのだから、何かの秤を求めるのは仕方ないのかな。経済を測る技術の一つとしてGDPが使われるのはそんな理由かもしれません。

GDPというのは市場における財貨やサービスの付加価値の総和ですから、これも市場を前提とする考え方です。
例えば家を火事で失う、家族が交通事故で命を落とすということがあって、火災保険で補償されたり、自動車保険から保険金が降りるなんていうことがあると、財貨の交換が発生しますから、GDPに貢献してしまうのだけれど、いろいろな思いが詰まった家を失う、大切な家族を失うという損失はGDPに反映されない。GDPという秤では測れないものがたくさんあります。

新自由主義を批判しながら、市場経済というものが正しいと信じて、GDPによって経済を測る人ってけっこういますけれど、新自由主義もGDPを語る人も、どちらも市場原理主義というか市場万能主義というか、市場ありきの議論でしょ?

しかも金という信用で成り立つ価値に置き換えて測るわけだから、 その信用が特定の集団によって政治的に操作され得ることを考えると、当てにならないことは自明です。

どこかで別の秤を用意しないと、私たちはとんでもないところに行ってしまうのではないかと心配になります。
個人的には自給率や再生率なんかにもっと重きを置いた方が良いと思っています。
自給すると財貨やサービスの交換が減りますから、GDPから見たらマイナスに見えるでしょう。でも、依存しない経済なわけだから安心感はある。
再生を重視する、例えば製造者が再生まで責任を持つということになると、生産コストがあがりますから、嫌がられるでしょうけれど、捨てるものはもったいなから買わない、もったいなから作らないという考え方はそんなに悪いものではないし、むしろ再生経済を構築し得る技術革新が伴えば、経済発展の指標になり得ると思います。

なるべく自分のことは自分でやろうとか、もったいないから買わない・作らないなんていうのは、当たり前のことでわざわざなんとか主義って言わなくてもいいでしょう。こんな考え方だからなんとか主義を声高に叫ぶのは違和感があるわけです。

このなんとか主義ですが、他にもいろいろあります。

例えば菜食主義。
伝統的にその地域では動物の肉を食べないなどということもあるでしょうけれど、ほとんど場合はただの頭でっかち(理性万能主義というやつ)ではないかと思います。

自然の循環の中では、微生物を食べた生き物が、より大きな生き物に食べられて、排泄物が微生物に分解されて植物が育って、そういった全体の生命の営みの上で、命をいただいて人間が生きてるわけです。

動物も植物も一緒です。便宜的に動物と植物を分けているだけで、科学というものが事物を細分化しているだけで、本来は一体なわけです。そして人間もその一部。

口蹄疫みたいな病気にかかった動物を大量処分(大量虐殺)することがあります。一方で、側溝に落ちて出られなくなった猫を救出して大喝采みたいなこともあります。
こういうことが同時に起きている。場合によっては同一人物が、 口蹄疫にかかった牛は食べられないからって殺せと要求しながら、子猫の救出劇に手を叩いて喜ぶ。自分中心、人間中心の考え方ではないかって思います。

人間に危害を及ぼすかもしれない動物を殺すこともある。それを批判する人が同時に虐殺した牛や豚の肉を食べるわけです。熊を殺すのは悪で牛を殺すのは善だとするわけ。善悪の判断が違うような気がしますが。

動物の命を奪って食べるのは悪であるとして、菜食主義を訴える人がいます。
ところが野菜や穀物だけだと体調が優れないから、魚介類はちょっとぐらいは食べるという。菜食だけが良いという主張を否定せざるを得ない、菜食主義じゃダメなんだという答えを自ら出しているにも関わらず、菜食主義だと言い張る。自分が良いと思っていることと、実際にそれが良くないという現実との乖離現象です。
自分が善だと思っていることは実は思い込みだった。思い込みを信奉するのが理性万能主義と言われるものの主要な要素です。
こういう場合、体調が悪くなるのは菜食にしたことではないのだと思います。そうではなくて、菜食が善だと思い込んでいるけれど、実はそうではないという現実。認識の歪みが原因なのではないかと思います。「病は気から」というのはこういうところから来ている言葉です。
菜食が善、動物をあやめることは悪、動物を食べるのに罪悪感を感じる。全部、そう思い込んでるだけであって、その思い込みが認識になって、それを現実だと勘違いする。その結果、それは違うよという信号として体調が悪くなるという現象になる。
自分が自然全体の一部であって、自然とは切っても切れない存在であるという実感が希薄なのではないのかな。
人間を生かしてくれているのは自然です。原発でも電気でもない。
こういう当たり前のことを感じ取れないということが病んでいるということではないかと思います。
理性に寄りかかることで病むんですよ。

食に関しては、身近なものを食べる、季節のものを食べる、なんていう当たり前のことを軸にして、バランスが取れていれば良いと思いますよ。なんとか主義で飯食っても美味くないでしょ。

食育

子供の頃、蟻を踏みつぶしたりカエルに爆竹をくわえさせたりして遊んだことがある人はいると思う。
少し大きくなると大抵はすぐにそういうことはしなくなる。
大人になってもそんなことをするのは異常でしょ。
猫や犬に残酷な悪戯をしたという事件がときどきあるけれど、あれは異常者のすること。
普通は大人になったらやらない。

子供ってけっこう残酷なことをする。

こんなことを話すと残酷だと嫌がる人がいるけれど、よ〜く考えるとけっこう人って残酷なことをしてる。
牛や豚を屠殺する光景を見た事がある人は、あれがすごく残酷だと思うでしょ。

残酷だけれど人間が生きる為に仕方ないって目を瞑ってるんじゃないかと思う。

昔、日本では牛の肉なんか食べることは滅多になかった。
肉屋さんは穢れた職業で、肉を処理する人たちは差別と言っていいのかわからないけれど、普通の人とは違う身分として扱われていた、なんていう話を訊いたことがある。

これって凄くずるいんじゃないかって思う。

残酷なことを他人にやらせて、自分はその残酷さを感じないで済まそうとする。
罪の意識を感じないように誰かに押し付けてるみたい。
自分の穢れを誰かに押し付けてるみたい。
ずるいよね。

いっそのこと子供のうちに実際に屠殺を経験させてみてはどうかと思う。
残酷な光景を見せて食べるのをやめさせるのが目的ではなくて、他の命を奪って人間が生きるという現実を教えるために。

日本の捕鯨に抗議するインチキな団体があるけれど、捕鯨をやる人たちは鯨供養をして、残さずに鯨という資源を利用してきた。「人間が生きる為に鯨の命をいただく。いただきますと言っていただく。」みたいなことを言って美化する人も、牛の肉を食べて供養したりはしない。

こういうのをご都合主義と言うんじゃなかろうか?

自分でさばけない生き物の命を奪って食べるのはやめようという教育をしてはどうだろうか?
原理主義的にこれは絶対ダメみたいなのは好きじゃなけれど、徐々にそういう方向にいったら良いと思う。

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