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ニンジンとギターは何の関係もありません。

今日は家庭菜園のニンジンを収穫しました。

うちは肥料も水もほとんどやらないです。芽を出す時にはしっかり水をやるけど。

菜園の土の上に、いただいた籾殻を敷き詰めて、培養した乳酸菌を散布してます。保水力が高まると思ってそうしてます。
なるべくほったらかしで、多品種の野菜を、たくさん栽培するのが目標です。まだまだ時間がかかりそうですけど。

水は井戸水。竹炭とゼオライトが入ったタンクに一旦井戸水を入れておいて、ときどきジョウロに移して水やりします。井戸水の中の金属イオンなどを検査キットを使って調べてみたんですが、ついでに竹炭に入れた井戸水がどうなるかを調べたところ、ほんの少しアルカリ性になります。よく消石灰などを畑に撒いて、弱アルカリ性の土にするなんていうことをやりますが、うちはその必要はないと思ってます。

 

今日はネックの太さ調整、ヘッドの成形、ブリッジの仕上げ、裏板作りをしました。

ほとんどの構成部品が揃いました。あとはナットとトラスロッドカバーくらいかな。

ネックを接着して、ネックの接合部分の成形をして、裏板を貼れば塗装工程です。あとちょっとでできます。

どんな音がするのかまったく見当もつきませんが、弦を張って音を出すのが楽しみです。

ネックは持っているGrecoの1979年製くらいのレスポールタイプと同じくらいの太さと形状にしました。なんだかんだ言って、このレスポールタイプが一番弾きやすいんですよねー。ハイポジションが弾きにくいなんていう人もいますけど、弦の振動が左手にビンビン伝わってきて、1弦から6弦までハッキリした音が出る。いずれ同じような音が出るレスポールを自分で作ってみたいです。Gibsonなんかのいいギターは高いし、Gibsonだからってこれと同じような音が出るわけじゃないし。

不安産業

的を得た言葉だと思って使わせていただきます。

不安産業。

人の不安を煽って金儲けをする商売です。

宗教なんかは典型ですね。
続けるためには次から次へと不安の種を見つけます。
TPP反対、パチンコ反対、ぎゃーぎゃーみたいなのも不安産業の一部です。がっちり組み込まれています。
政治評論家だのジャーナリストだのが、支那の工作船が来ると一斉に支那批判キャンペーンを張る。事件によって人々が感じる不安は彼らの飯のタネ。

こういう人たちは、こうすれば不安がなくなるよとはなかなか言わない。
たぶん言えないんでしょ。

不安を煽るのではなしに、希望を見せるということに力を入れてはどうだろう。
不安を煽る情報は意識してみない。そういう情報の流れ道は遮断してしまう。
ツイッターだのミクシーだので、年がら年中不安産業の片棒を担いでいる人は、あれは、暇だからやってるんでしょう。だから、何かに打ち込んで暇を減らすのも一考です。

神道における祭祀は感謝が軸にあります。
不安を煽るのではなく、ただただ感謝。
生きていることに感謝、働けることに感謝、食べられることに感謝、ご先祖様に感謝。
感謝感謝。

不安に駆られて行動を起こすのではなく、感謝して感動して行動する方が楽しいに決まってます。

自分の誕生日を聞かれたら、たいていの人は何月何日って答えられます。
自分の誕生日を知っているから。

と、思ってるけれど、本当はこれは自分の認識ではないですね。
オギャーと産まれたのが何月何日なんて、本当は知らないはず。

あなたの誕生日は何月何日だって言われて、それを覚えて知っているわけで、自分の誕生日は他人の認識によって知ってる。
そういうことを考えると、一体この認識は自分で獲得した認識なんだろうかって、常に疑いたくなりますが、面倒くさいので続きません。

情報が溢れています。
たまたま調べたいことがあってネット検索をすると、2チャンネルのスレッドに行き当たるときがある。
僕は好きじゃないので、あそこに入り浸ったり、頻繁にアクセスすることはないけれど、まあ、よくもこれだか知ったかぶりの人がいるもんだと、驚いてしまう。
知ったかぶりっていうのは、知らないんだけど知ってるつもりなわけで、誕生日の認識の話と一緒で、他人の認識を自分の認識だと勘違いしている。

弾いた事もないギターの音色についてグダグダ話して、挙げ句の果てに言い争い。暇なんだね。
ギターの音色は、いろいろな要素で決まるから、ちょっと弾いたぐらいじゃわからない。演奏が上手い人が機材の設定や演奏方法を工夫していい音を出してるのと、素人がちょっと楽器店で試奏したのを比べても意味がない。演奏の上手な人のギターの音色を聞いて、このギターはこういう音と思うのも、他人の認識ですね。他人の認識の上で、機材の設定や演奏方法が工夫されて出てくる音だから。

こういう「他人の認識を自分の認識だと思う」というのは、僕は消費の姿なんじゃないかと思う。

情報を消費してる。
何度か書いていることだけれど、他人の言説を引用してブログを書いて、他人の言説を自分の言説の一部に組み込んでる人ってけっこういるけれど、他人の認識を自分の認識と勘違いしているように見えることがある。

「あなたそれを見た事あるの?」「あなたはそれをやった事があるの?」

歴史認識なんていうのも、実際に見る事ができないこともあって、他人の認識のオンパレード。
消費の山ですから、ゴミもたくさん出ます。

情報を選ぶ力を情報リテラシーなんて呼ぶことがありますけど、他人の認識のオンパレードの中から本当のことを選ぶのはとても難しいし、ほとんどが他人の認識なので、そこから選ぶということの価値はほとんどないかもしれない。
限られた時間で何もかも実際に経験して自分の認識を獲得することはできないので、他人の認識を借りることはあるのは仕方ないとしても、他人の認識を借りているということを自覚することが、情報を選ぶ際には大事だと思う。

現代社会って情報も物も、大量消費社会です。ほとんどの人が毎日消費ばかり。生命線である食べ物すら自分で作らない。そういう生活になると、本能が活発に働く人なら別だけど、何か危機が訪れても自分の認識が持てないんじゃないかって、原発災害の時に思いました。
他人の認識で話してる人が実際にとても多い。自分の認識が持てないと、世の中で起きていることは、すべて他人事です。

テレビ、新聞、言論人。これらの言論商売人たちは、言論の消費を煽るわけです。それの乗っかって消費する。出てくるのはゴミばかりじゃないけれど、大量消費をすればゴミが増えます。
実際にやっている人の言葉ですら、「よく見せよう」とか「恥ずかしいから」とかで認識が歪んだりしますが、言論商売人たちの言葉よりはずっといい。

そんな実践者の言葉でも、これがまた、自分でやってみないと、本当の意味がわからないんですね。
やっぱり自分の認識は自分で獲得しないと、自分の認識とは呼べない。

小さなことですが、そんなことを痛感するギター作りの毎日。
些細なことばかりですけど、ああ、こういうことか、と認識を獲得する。

一昨日徹夜してしまったので、昨夜は作業をせずに早く寝ました。
今日は久しぶりに仕事帰りに飲むので、今日も何もできないかな。

このアングルで撮った写真が好きです。すごくカッコ良く見える。

だいぶ形になってきましたが、まだまだやることはたくさんある。

ペグ穴が、そんなはずはないんだけど、深さが足りないということが発覚したので少し掘る、ボディー表側にバインディングを貼る、フレットを打つ、トラスロッドカバーを作る、表板の厚みをもう少し落とす、ブリッジの最終的な成形をする、ネックを接合する、裏板を作って貼る、塗装する、などなど完成までにやることがたくさん。今度の土日には塗装の手前まで一気にできるといいな。塗装中の一号機を早く完成させないと塗装に入りたくないから、そっちも急がないといけない。塗装に入ると時間が空くから三号機に着手しようかな。

ほとんどすべての作業で、一見簡単そうでもやると難しいということを経験する。そんななかで「これはこういうもの」という自分の認識を少しづつ獲得すると同時に、自分があまりにも何も知らない、何もできないということを自覚する。

こんなことをやっていて思うんだけど、最終製品を買わないで作る、というのは自分の認識を獲得するのに良い方法なんじゃないかと。
スーパーで買ってこないで自分で育てると、同じ野菜でも認識することが違うのと同じです。

「天皇陛下がおっしゃたのだから」

この文句を良く見聞きするんだけど、なんか違うんだよね。

現在でも生きている大日本帝国憲法の時点では、「主権」という概念がありません。
これがどうしてもあると言いたい人が多いんです。
日本国憲法が有効だと言い張る人たちです。

憲法は本来不文法の「法」ですから、この「法」と矛盾する日本国憲法は憲法ではない。
大日本帝国憲法は不文法を「文字化して一部を投影したもの」だから憲法です。
これは当時としては常識だったんじゃないかと思う。

大東亜戦争の時に軍部の官僚が天皇陛下を利用して「天皇がおっしゃったのだから」のような理由で戦争を正当化したとか。そういうのとダブるんですよ。

これは天皇主権説という立場の論法ですね。
美濃部達吉などが天皇機関説を唱えて、この主権説と対立していましたが、美濃部が主張しようがしまいが、もともと天皇機関説ですよ。
天皇と云えども国体の下にあるわけで、天皇が国体の上に立つことはない。

美濃部らはGHQの苛烈な占領統治と自己保身のために寝返ってるんですね。
無理矢理こじつけて、自分たちの主張したことは引っ込めずに、変な論理を組み立てて 、GHQ製の日本国憲法が有効であると主張し始めることになります。
その流れで、今、多くの大学で教える憲法学は、わざわざわかりにくい論理を構成してます。
憲法を国体的要素と政体的要素に分けて、国体的要素では天皇主権を唱え、政体的要素では国民主権を唱えるなんていう馬鹿なことをやるわけです。
国体も政体もはっきり分けることができないのに、分けられることを前提にした論理。インチキですね。

当時の状況は過酷だったから、仕方なくGHQの言うことを聞いたということがあって、それについては情状酌量の余地があるとしても、その後、形の上では独立を回復したわけだから、自らの間違いを正すくらいのことはしても良かったはず。
日本国憲法無効宣言をするだけで済むのに。(無効ということは、元々憲法として効力がないということ)

間違ったらそれを認めて謝る。
それができない大人は子供の教育はできませんよ。
そんなのが東大で学生に学問を教えるわけですよ。
これじゃ教育そのものが成り立ちませんね。

間違ったときは正す。たとえそれが天皇でもそれが必要でしょ。臣民の責任です。
間違ったことを知っていながら、それをやらないわけです。この学者たちは。

こういう人たちは「反天皇だと思われるとまずいから」と「GHQの意向に従わないとまずいから」という理由で、ずっと嘘をついてるわけです。そして、それと似たような「反天皇だと左翼扱いされるから」と「戦後の生活=自分の生活を、そのままダラダラ続けたいから」という理由で、「天皇がおっしゃたのだから」と天皇の権威を利用してるわけです。

小沢一郎氏の「天皇の政治利用」に憤りを感じて批判をしながら、自分も天皇の権威を利用して「いい子 」のフリをするという、卑怯というかなんというか、どうしようもない精神です。そんな精神だから、寝返った学者たちの説を振り回すんでしょうね。

そんな年寄りはそのうちいなくなるのだから、残った若い人たちは、そういうみっともない日本人にならないようにして、本当の日本復興の力になって欲しいと思います。間違っても似非尊皇愛国風味の大人にはなるな!

昨日は家に帰ってから、一心不乱にギター作りをしていました。
表板を貼って、ブリッジの位置を決めて、だいぶ完成形が見えてきました。
細かなやるべき事はまだたくさんありますが。

結構カッコいいですね。手前味噌ですが。

Paul Reed Smith と Ovationを足して2で割ったようなギター。

ここに来るまでの間にも数多くの失敗をしています。この後もたくさん失敗をするんだろうと思いますが。

完成が近づくと焦りが出ます。
僕の場合は焦ると確実に失敗します。

物を作るというのは、自分を見つめる時間を持つ事かなって思う毎日です。これが楽しいんだなー。

今日の東京は雪で凍ってるところがあったりして、いつも(今日も)履いている裏がツルツルの靴ではまともにあるけません。
朝から緊張しました。

寒いーとか暑いーとか、そんなことばっかりツイートする人がいるんだけど、もう少し違う言葉が出て来ないのかなって思いながら見てますが、寒いーという感覚だと冬なんだよね。

でも、この辺りで雪が降る時期は、梅や桜が花を開こうと蕾みが構えているようなタイミング。ああ、春が来たねっていう感覚です。
四季に影響を受けて生きてきたから、そういう感覚になるんだと思うんだけど、住む土地がすごく離れているならともかく、そういう感覚になれない人を見ると、きっと暑ければクーラー、寒ければヒーター、なんていう生活を子供のころからしてるんだろうなと思うわけ。きっと暮らしが違うんだろうなって思う。 春がもう来ているのに気がつかない。ちょっともったいない気がします。

気がつかないと気が利かないということにもつながりかねませんが、気が利かない女性などは、僕の周りの知りうる限りという条件での観察ですが、婚期が遅いです。
僕の個人的な感覚で趣味の問題かもしれませんが、気が利かない女性で、かつ、気を使わせる女性には魅力を感じません。一般的に男性はそう思うのかどうかはわかりませんが、これも、僕の周りを観察する限りという条件での観察ですが、そう感じる男性は多いように思います。

昨日はヘッドにインレイを埋め込み、指板のR付けをしてから、ちょっとだけブレーシングをいじっておしまい。指板に埋めたウサギインレイが、指板を削り過ぎてかすれてしまいそうです。一応、それくらい削ることを想定してインレイの溝を掘ったんですが、ちょっと予定よりも削り過ぎたかな。
小刀とサンドペーパーをずっと握って作業すること5時間弱。右手の感覚がなくなってしまいます。

昨日のギター作りの記録はこちら。http://wp.me/PKQj5-vs

睡眠不足を補ったり買い物に行ったりで、いつもよりは作業時間が取れない土日でした。
削り過ぎ、切り過ぎ、開け過ぎ、削り損じ、切り損じ、開け損じなどが目白押しで、ヒヤヒヤものの二日間でした。

土曜日にトリマーでネックポケットを座ぐって、ネック側のジョイント部分を仕上げて合体チェック。やっと表板の加工ができるようになったので、日曜日は表板の加工と、食事、風呂、トイレ以外の時間はギター作りに没頭。食事も時間が惜しいのであまり取らないし、休憩無し、水も飲まずに何時間も木と戯れるなんていう状況。やり始めるといつもこうです。

表板の裏にはブレーシングという補強材を貼ります。
ブレーシングには補強という役割の他に音の伝達を制御するという役割もありますが、どちらも経験がない、比べるものがない、ということで見よう見まねで、それ風にしかできません。
こういうことが、自分の意図を反映してできるようになるのはいつの事か。

幸運に助けられてなんとかここまできて、材料をゴミにしてしまわずに済みました。
ボディーとネックの中心線がブレなくて済んだのは、とにかく良かった。

自分が経験していないことは、他人の経験をお借りして対処します。
ネットには多くの情報がありますから、とりあえず収集して、選別して、理解を試みて、仮説を立てて、実際にやってみて検証する。
ブレーシングに関しても、「こうやればいい」みたいな例がたくさんありますから、その中から「たぶんこれでいいだろう」というものを選んでやってみる。
経験がないので、それがどういう結果になるかは予想できない。
これと同じ設計のギターが世の中に存在しないので、上手く行ったか行かなかったかを評価する比較対象がありせん。
弾き易くて普通に鳴れば僕としては満足ですし、このギター作りがギター作りの練習ですから、比較はしなくてもいいんですけど、次に似たようなもの、同じものを作るときの判断材料ぐらいは欲しい。まあ、今回のギターがその判断材料の一つにはなるので、気長にデータを蓄積するしかないんでしょう。

ブレーシングの情報は朝晩の通勤電車の中で調べます。
iPadとWifiルーターがあるおかげで、そういうことがやりやすい。
立って片手で扱うにはiPadはちょっと重いけれど、ノートブックPCのようなものよりは圧倒的に使い勝手がいい。
これのおかげで、朝起きてから寝る直前まで、息つく暇も惜しんで暮らす事ができます。
ITは人を忙しくするためのものです。笑

ネット上の言論には怪しいものが多いです。

天皇について語るとき、どうも似非保守系の文献が溢れているようで、元ネタが怪しいんですよ。何かの罠じゃないかと思います。あるいはタダの無知か。
完結に大事な点だけ書きます。

天皇は「君臨すれども統治せず」ではないです。
これは英国の話。
英語がしゃべれず英国の不文法を理解しなかった王だったから、実質的な政(まつりごと)をできなかった、させなかった、ただの置物だったという意味。
日本の場合は「統治すれども親裁せず」です。
天皇が統治するのが日本です。
天皇が「しらす」統治をするのが本来の日本の統治形態。「統治せず」は明らかに間違いです。

「君臨すれども統治せず」を言う人は、確信犯的に「日本国憲法」を(有効だとして)護憲する立場(改憲派も含む=有効だから改正という発想になる日本国憲法護憲の立場)の人です。國體破壊の性質を持つ日本国憲法、天皇を象徴という飾り物にする日本国憲法を護持して、國體を護持できない思想。その為の方便の1つが「君臨すれども統治せず」です。これはとても危険な表現です。

それと天皇が大事である敬う存在であるという根拠は、いろいろ書く人がいるけれど、皇室が我々日本人の宗家であるからですよ。ここを外すと國體論が歪んでしまいます。
「伝統だから」天皇や皇室が大事なんじゃない。

両親には両親がいてという命の連鎖を数えて行くともの凄い数になります。2のn乗を足して行った数字ですから、もの凄い数です。もの凄い数だから、自分の祖先と天皇陛下の祖先が重なるはずです。皇室は私たちの宗家だということ。だから大事です。その中心に天皇がいるということ。だから大事です。これは科学であり現実であって、観念の産物である宗教との決定的な違いです。

こういう中心がブレたら、何を言っても全部ブレます。

日本の不文法に従った立憲主義を尊重するかどうか。
祖先を敬うことができるかどうか。結果的に宗家である皇室とその長である天皇を敬うことができるかどうか。要するに祖先祭祀の実践ができるかどうか。
憲法や天皇といった国の根幹をテーマにして、なおかつ、日本の国柄(国体)を護持しようと言う立場なら、ここはしっかり認識した方がいいと思う。
そうしないと簡単に論理矛盾を起こします。

象徴天皇論なんていうのを言う学者は、日本国憲法が有効だという立場ですから、 天皇を飾り物にしながら天皇が大事だなんていう矛盾したことを平気で言ってる。
意図的にそうしているなら、これはかなり悪質です。

不文法(憲法)に従い、天皇が統治するのが立憲君主制です。
日本国憲法は不文法を否定し、不文法ではないので、日本国憲法が憲法だと言うなら、そこからは立憲主義は導き出せない。天皇を飾り物の象徴にし「君臨すれども統治せず」なんて言っているなら、そこからは君主制は導き出せない。
それではどこかの共和制国家と一緒。
日本人のほとんどがそんな国家になることに同意はしてこなかった筈です。
これこそが憲法違反でしょ?法に反する状態でいるわけだから。

意図的に解釈を歪めた憲法論や天皇論が氾濫しています。それに乗っかって、アレコレ言ってる。ちゃんと日本の憲法(典憲)を古いものから順に読めば、通説と言われて流布している情報が嘘なのはわかる。嘘に乗らないでください。

何年続いたとか、世界最古だとか、そういうことあまり関係ないんです。伝統が大事なのには理由があるわけで、その理由の方に着目しないと。

皇室の伝統が大事な理由を知っていなければ、「時代とともに言葉も服装も変わるんだから別に天皇が女系になったっていいじゃん」という反論に耐えられませんよ。少なくともそうやって反論してくる輩はどんどん出てくる。
こういう反論をする人には、いくら日本が世界最古だとか皇室は長く続いてきたとか言っても通用しません。

子供でも騙せないようなことを、平気で毎日のように書いている大人がいるという現実。
難しいことではないので、少し勉強してから発言して欲しいものです。

早いもので新年を迎えてからもう3週間。旧暦の正月は今の暦では1月22日から2月19日頃までの間だったわけですから、そろそろお正月=新春ということになろうかと思います。

昨夜、自分の部屋で黙々とギター作りをしていて雨音が聞こえたので、もしやと思いましたが、今朝目を醒まして外を見ると白いものが空から落ちてきていました。

僕の住む地域では年に数回雪が降ります。少しだけ。
雪が降ると「ああそろそろ春だなぁ」と思います。そういう意味では旧正月の方が合っているのかもしれません。

最近では祝日法(国民の祝日に関する法律)なんていうもののおかげで、本来の祝日とは関係なく連休を作るために無理矢理祝日を変更したり、そうでなくても、本来の祝日とは違う名前をつけて意味がわかりにくくなったものが多いです。
本来の祝日は日本の伝統に即した意味があるものでした。 伝統や文化の蓄積が国柄となり、その中の規範的な要素が「法(憲法)」になるわけですから、本来の祝日の意味をわからなくするような「法律」を作るという考えは、五月蝿く言えば「憲法違反」に近い行為ではないかと思います。

よく日本は民主国家である、民主主義の国であるなどと言う人がいますけれど、果たしてこうなることを日本人が合意した上で定めたのでしょうか?少なくとも僕の感覚では違います。
学校で民主主義だって習うから民主主義だと思っているだけで、本当はそんなもので日本という国が治められているわけではないでしょう。

「日本は民主主義の国である」「国民が主権を持つ(絶対である)」などという刷り込みの結果ですね。結果的には国柄=国体を破壊することになりかねませんから、この刷り込まれた状態でいることは、本当はもの凄く危険なことかもしれません。

現在の暦は明治期に世界の基準に合わせるため(?)に採用されたもの。今更、この暦を旧暦に直せなどとは思いませんが、せめて旧暦の祝日の意味ぐらいは知っておいて、その都度、その祝日の意味に応じた行動なり発言なりをして行きたいと思います。

現行の祝祭日が決められる前の祝祭日(これが本物だと思う)は次のような日です。

  • 1月1日 四方節
  • 1月3日 元始祭
  • 1月5日 新年宴会
  • 1月30日 孝明天皇祭(明治天皇の崩御で廃止)
  • 2月11日 紀元節(現建国記念日)
  • 3月21日ごろ 春季皇霊祭
  • 4月3日 神武天皇祭
  • 4月29日 天長節(現昭和の日)
  • 7月30日 明治天皇祭(大正天皇の崩御で廃止)
  • 9月17日 神嘗祭(後に10月17日に移行)
  • 9月23日ごろ 秋季皇霊祭
  • 10月17日 神嘗祭
  • 11月3日 明治節(現文化の日)
  • 11月23日 新嘗祭(現勤労感謝の日)
  • 12月25日 大正天皇祭
昭和天皇の崩御が1月7日ですから、1月7日を昭和天皇祭として祭日にしても良さそうなものですが、そうなってはいません。
現在の祝祭日と比較してみるとよくわかりますが、祭祀(天皇の祭事など)に関する物が、ことごとくなくなるか名称変更を受けてます。これが戦後体制というものですね。
現行の日本は象徴天皇制などと馬鹿なことを言う学者もいますが、国体の真ん中にいる天皇を象徴という実態のないものに置き換えるということを平気でやっている。 国体は「これまで日本に生きてきた人たちが蓄積したものの総体」ですから、そういう人は反日思想の持ち主です。そういう意識があるかどうかは別にそういうことになります。人間の思い込み(理性)が絶対だとするルソー教から派生したのが左翼思想ですが、今は法律も学校の教育もそういうものでいっぱいです。せめて「自分は左翼ではない」って言う人ぐらいは、よく考えてみてもらいたものです。

昨年末に取りかかった自作ギター2号機。昨日は指板をネックに接着しましたが、1号機では丁寧に接着面の平面出しをしたにも関わらず、指板とネックの間にところどころ隙間が見えてしまいました。原因はクランプする場所だったと気づいて、今回は指板の両脇と中心部分に同じくらいの圧力がかかるようにクランプをかけました。今朝、クランプを外して確認したら隙間がまったくなくきれいに接着されていました。失敗してみないと学べないようです。学んで、やってみて、失敗して、本当に学ぶっていう感じです。いちおう、やる前にいろいろ調べたりはしてるんですよ。それでも失敗ばかり。そんな失敗が最近は楽しくて仕方ない。(いちおう一瞬凹みますが)

昨日のギター作りの記録はこちら。 http://wp.me/PKQj5-uz

これもちょっと騙しが入っているような言葉だなって思います。
本質を表現するなら「制限貿易」という言葉を使うべきじゃないかって思います。

必要物資の自給体制があった上で、それに含まれないものは交易によって賄うということ。

もしお子さんがいて学校での社会の時間に「鎖国」について教わったら、「それは制限貿易って言って、食べ物や着るものは自分たちで作って、作れない物だけを輸入しいたり、余った物を輸出したりすること」くらいの感じで教えてやった方がいいと思います。

同意できるという人は、これからは「制限貿易」という言葉を使いましょう。

江戸時代は今より安定した社会だったんじゃないかなって思います。江戸は今で言う警察官がもの凄く少なかったというし、いろいろな文化が発展したし。そういうことっていうのは社会が安定していなければできません。

よく昔は良かった的なことをブログに書く人がいますが、どう良かったのか、なぜそれが良いのか、今はどうなのか、どうすればいいのか、などをよく考えてみる必要があると思います。

必要物資は自給して、それ以外を交易に頼るというのは、日本がもっと元気よくなるための鍵ではないかと思います。願わくば、そのような体制を各国、各民族に広げて行く。
石油、食料、水など、生きるために必要な物資は、地球上に万遍なく存在していません。偏在化しているという言い方をしますね。
これまでそれを取り合うということをやってきたわけです。 そのために戦争もしてきた。
欧米のほとんど国はそれだけではなく、人を奪う=奴隷という制度まで持っていた。白人はアジア人のような黄色人種やアフリカなどの肌の色の黒い人たちを、自分たちとは違う=人間ではない、ものとして扱ってきた時期が長く続いた。

エボニー アンド アイボリー♪ ポール・マッカートニーとスティービー・ワンダーが歌っていましたが、今では人種的偏見もだいぶ少なくなっているように思います。まだ多少はあるかな。
白人と黒人、あるいは白人とそれ以外の人種、のように分けて評価すること。そこに別の評価を加えて白人は優秀、それ以外の人種は劣等のような考えてしまうこと。
そういうものに人間は弱いようです。
何が善なのか悪なのかを、はっきり説明できないのに、善悪を判断してしまう。というか判断してしまうように仕向けられる、なんていうこともあります。
善とは何かを説明できないということは、善悪の評価軸なんて常にグラグラとするわけです。好き嫌いとか思い込みになったり、他者からの煽動によって変わったり。
そういうことが増えてくると、とても我が国で言うところの「和の精神」というものとはほど遠い社会になってしまいます。

逃れるコツがあります。
評価を先送りするんです。
すぐに評価しない。どうしても感情的になるから。
言い方が悪い、書き方が悪い、嫌いな人が言ってる、なんていうことで本質を見ないうちに評価してしまうことは防いだ方がいい。
評価を先送りして、一旦、受け止めてよく考える。

神武天皇の御詔敕に八紘爲宇というものがあります。

上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。
(かみはあまつかみのくにをさづけたまひしみうつくしびにこたへ、しもはすめみまのただしきみちをやしなひたまひしみこころをひろめむ。しかうしてのちに、くにのうちをかねてみやこをひらき、あめのしたをおほひていへにせむこと、またよからずや。)

ここにはいくつもの都を覆って一つの家にする、というような事が書かれている訳ですが、融合とか和合とか、そういった概念があるのでしょう。

憲法十七條にもあの有名な「和なるを以て貴し」なんていう言葉が出てきますし、大和民族、戦艦大和など、「和」という言葉が使われることが多いです。
この「和の精神」は我が国の国柄に結びついていると思うんですね。
神武天皇の御神敕を真正面から受け止めれば、吾等は和を以て尊しとし、和を広めて行くのである。「大きな和」を希求する人々である。そういう使命みたいなものも、もしかしたらあるのかもしれません。

そういう考え方からすると、白人黒人を分けるとかっていうのは対局の思考だと思います。

この八紘爲宇の思想というか精神というか。これと制限貿易は関係があります。
制限貿易(必要物資の自給と余剰品の交易)で社会を安定させる、この場合の社会はとりあえず国としましょう。
他の国にもこの思想を広めて、他の国も安定するようにする。日本は海中の藻から石油を作る技術があったり、優れた農業技術、治水技術なんかもありますから、そういった技術を提供して行けば、「必要物資を自給する」という体制は作り易い。そういうことをやっていくのに一番近いところにいるのが日本ではないかと思います。
いきなり国という大きな単位でやるのは難しいから、都道府県、市区町村、家庭とできる範囲で取り組めばいいでしょう。

これは生活のフレームワークを変えてしまおうという話です。

今は金融資本(銀行屋)が世界をコントロールしようとしています。戦争を仕掛けることもあれば、食料の相場を操作することもあります。政治的なイデオロギーなどを越えたところで、政治がコントロールされます。イデオロギー対立なんかやってる場合ではないんでしょうけど、彼らはメディアを支配してそういう対立を作り出す事もします。

自由貿易という、「自由」なんていう言葉を使ってるからなんとなく良さそうなものも、実体は商品取引が発散しただけのもの。なんでも金で買う。どこからでも買う。そういうものです。銀行屋の仲間が独占するものもありますね。自由という言葉で出てくると胡散臭いものばかりです。

一つの物を作るのにも、長く複雑な工程に分業化されています。一時期IT業界でも、トレーサビリティーを上げようなんていう試みからICタグを使ったシステムの研究開発が盛んでしたが、これは無理です。今日食べたハンバーガーの原料、使った農薬、製法、誰がその製造に携わったか、複雑多岐でわけがわかりません。
金融資本主義も自由貿易も国際分業も、うまく行っているときは便利ですが、天災、戦争や紛争、政治的意図によって機能不全を起こしたら、予想しきれないリスクが発生します。こういうのを安定した社会とは呼べないでしょう。

なのに、政治家も官僚も今までのフレームワークの上で考えようとする。せっかく日本にはお手本となる思想や知と技の蓄積があるのに、そこから学ばずに戦後に作られたフレームワークの上で考えようとする。お金の分配、分け前の調整に躍起になってる。
そんな人たちが当てになりますか?

安定した社会で衣食住に困らなくて、文化が発達して笑顔が絶えない。そんな人々、国々が和合した社会。そういうものを望む人は多いと思うんですが、これを読んでいるみなさんはどうでしょうか?
今日明日にすべてが変わるわけではありませんが、今日明日にでもできることがある筈です。

昨夜はネックの裏側の成形とヘッドへの天神板の貼り付けをやりました。もう少しカンナなどの道具が豊富だと楽に作業ができるのでしょうが、1本目の自作ギター同様、このネックの成形作業には時間がかかっています。

1本目のときは、あまりにも道具の使い方下手だったので、かなり保守的な加工をしました。保守的というのは、削り代をたくさん残して材を大きめに切り出すという意味ですが、そのおかげで成形する際に、たくさん木を削るハメになって時間がかかっていました。

2本目の今回は、切り出すときに製図した寸法からほんのわずか大きめにすることで削る労力を減らそうと思って、慎重にノコギリなどの道具を使うようにしています。また、多少はカンナやノミなどの扱いに慣れてきたこともあって、作業自体のスピードも少し上がったと思います。

一歩一歩技術を獲得して経験を積む。そういうことがとても楽しい。
ギターも一歩一歩形になって行きます。それを見てから眠りにつく。一日の終わりを意識する瞬間です。

制作日記はこちらです。http://wp.me/PKQj5-uz

このギターは一体どんな音になるんでしょうか。まったく想像ができません。

普通のアコースティックギターだと、ナットやブリッジが牛骨などの素材。ボディーももっと大きい。ネックもマホガニーが多いのかな。このギターはナットは現時点では黒檀にする予定、ブリッジはGibson Les PaulのようなTune O Maticの金属製のブリッジ、ボディーは薄く小さい、ネックはハードメープル。そんなに多くのギターを弾いた経験がないですが、今まで触れたギターにはない材質の組み合わせです。その上にボディーの表と裏の共振を強制的に行うように金属のパイプを仕込むなど、もう「どうなるかわからない状態」です。良く鳴らなかったら楽器じゃなくて置物になるしかありません。

資金力のないアマチュアですし、プライベートな時間をやり繰りして制作するわけですから、同じ形のギターをいくつも作ってデータ取りをするなんていうこともなかなかできません。
技術も未熟ですから、同じ形のギターを作っても、同じようには作れません。
どんなことでも「こうすればこうなる筈だ」という理屈があって、それを実験して確認して、知識として経験として蓄積することになりますが、そういうプロセスがなかなか作れないです。
センス、感性、偶然に頼ることになるかもしれませんが、センスも感性も生来の物では役に立たないので、鍛えていかねばなりません。偶然は毎回起こるわけではないから偶然なわけですから、要するに「数をこなせ」ということになるでしょう。
ただ、自分の中で「こんな弾き心地」とか「こんな音」というイメージはしっかり持っていないと、何のために今の行動があるのかが不明確になってしまうので、 常にそれを意識していたいものです。
目的がはっきりしていれば、何を勉強すればいいかもはっきりしていきます。勉強をすると、それに関連した事柄への興味も増します。興味が出たらやってみたくなります。やってみるとまた勉強する機会が増えます。

自転車による訓練、ギター作り、家庭菜園などはもっと大きな目的のための手段です。
大きな目的から小さな目的まで、思考のプロセスや行動パターンが入れ子構造になっていますね。大きな目的のための手段として中くらいの目的があって、中くらいの目的の手段として小さな目的があって、みたいな入れ子構造もあります。その真ん中に一種の思想がある。こういうことがすべて思想活動になっているのかもしれませんが、それはこうやって文章にして振り返っているからそう思うのであって、それぞれが楽しいからやっているというのが、その時々の気持ちです。

どんどんやりたい事が増えていきます。時間が足りません。やりたい事を自分の時間の中にギューっと押し込んでる感じがします。何もしないで過ごす1時間とやりたい事を押し込んだ1時間ではスピード感が違いますね。人の活動は様々ですから、人によってもきっと時間の感じ方は違うんでしょうね。
もしかすると生きている時空も違うのかもしれません。 今ここにいると意識している自分が本当はここにいないとか。今見えている周りの人が本当はそこにいないとか。そんなことを通勤電車の中で考えた朝でした。

今日も楽しくやろう!

今はそんな人がほとんどだと思いますが・・・・

やってみるとそんなに難しいことじゃないんですよね。面倒くさいからやらないだけ。いろいろ理由はあるけれど、やっぱり面倒くさいだけ。

味噌も仕込めない、着物も縫えないのに、政治的に日本の伝統がどうのこうのってやってる人が多いですね。
伝統というのは、日々の人々の暮らしの中で蓄積されて行くものです。特定の集団や特定の人が「こうすると決める」ものではないです。そういうものが国柄として染み込んでいくわけです。そういうものの中で「こうすれば上手く行く」「こうすると都合が悪いことになる」というのがわかってきて、規範性を帯びてくる。これが不文法、つまり憲法ですね。 人々が積み上げてきた知恵が規範となって社会も個人も律するというのが我が国の姿なのであって、未だに民主主義なんていう絵空事を「あると信じて」あるいは「それが良いことだと信じて」唱える人が多いというのは大きな問題です。法は実生活の中で実践によって培われてきた規範であって、頭の中で描いた「こうなればいいだろうなぁ」という幻想で作るものではない。不文法の中で生きているという実感を持てないから、「書いたものだけを頼りに」し、「書いてないことはやってもいい」と規範を無視した行動をする、規範を作り上げてきた先人に感謝できない、そんなことが現象として出てくる。

日本は建国以来の立憲君主国です。世界唯一なのではないかと思います。
立憲主義というのは前述の「法」に従って行こうという考え方のことです。この立憲君主という体制の下で社会生活を営み、規範性も含めて歴史や伝統とその価値観を共有するのが日本人。DNAがどうのっていう唯物論では語れないです。
そこから外れた日常を送っていながら「伝統を守れ」「日本を守れ」なんていういうのは本来おかしなことです。

保守系と言われるブログなんかは、「昔の日本は良かった」という懐古主義的なものや、特定国を批判するものが多い。そういう自慰行為を繰り返すのは、負け犬根性なのかなと思います。
負け犬根性というのは、負けっぱなしの負けず嫌いという状態で獲得される性質。いつまでも負け惜しみを言うのが特徴です。
戦争に負けたことをまだ受け止めきれていない。日本が保有する米国債は米国が管理している。こういうのを保有とは言わないと思いますけどね。特定の集団が書いた日本国憲法という偽装がまかり通り、実質的には、それが憲法ではないわけだから、不文法を明徴にした大日本帝國憲法が未だに効力を持っている(不文憲法だから当然)、現存しているにも関わらず、日本国憲法に書かれている「平等」「人権」「国民主権」なんていう「実際はありもしない価値観」をありがたがっている。
負けっぱなしの状態でいるわけです。そこから離れようとせずに、どうでもいいことで不満をまき散らし、時には自慰行為をしてる。そんなブログを読んで同類が集まってギャーギャーやる。そんな集団が民主主義なんて言うわけです。恐ろしい話です。

よく「日本国憲法は戦後60年以上使われてきて、その下でいろいろな法律ができているから」という人がいるけれど、それが即ち憲法として有効だということにはなりません。「戦後60年以上使われてきた」し、「その下でいろいろな法律ができている」のも事実ですけれど、それを理由に憲法じゃないものが憲法になるわけじゃない。不文法の部分は特定の集団の志向で変えられないので、日本国憲法は憲法にはなれません。憲法にはなれない、憲法ではないので、護憲とか改憲というロジックもあり得ない。そのあり得ないことを議論する人たちがいるのは変でしょ?これを変だと思わないと変でしょ?

今週はネックをなんとか仕上げるつもりで、チマチマと作業してます。家に帰るのが夜8時くらいで、その日のうちに作業を終えるというペースなので、掃除の時間を除くと実質2時間か3時間。
一昨日は指板のアウトラインを作ったので、昨日はそれに合わせてネックのアウトラインを作り、ヘッドを切り出すところまでやりました。この後、ネックの裏側の面を作り、ヘッドに天神板を貼って成形し、ペグ穴を開け、ヘッドにインレイを埋め込んで、指板のR付け加工をしてフレットを打ってネックと接着。書いてて今週中には終わらないような気がしてきました。

ギター作りの記録はこちら。http://wp.me/PKQj5-uz

上から見たところはほぼ完成系のシルエットになってきました。

側板の曲げ加工に苦戦して、あまり上手くできなくて、若干曲がり方がおかしいので少し歪んでいたボディーですが。モールドに入れてクランプで固定していたらだんだん落ち着いてきました。

こうやってネックが最終的な寸法になってくると、全体としてバランスの取れたシルエットになってくるので、嬉しくなってやる気も出てきます。

昨日はノコギリでざっくりと指を切ってしまいましたが、今日はそういう事がないように注意して作業しようと思います。ついつい慌てて道具を扱って小さな怪我をしてしまいます。

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